2018.04.1

寄稿:建報社 KENCHIKU 15

『第三回 人間のための空間や街並みへの気づき』

効率を優先し経済原理で拡大を続ける近代の都市は、環境や伝統的コミュニティを破壊し、歴史や記憶の断絶を生み出してきました。
行き過ぎた近代化や機能主義の動きに対して、人間にとっての空間や環境を再考する大きなトレンドが動き始めた正にその時代、その場所に芦原義信は居合わせていました。


人間派の人々との交流とイタリアの広場での気づき
芦原義信が留学した1951,52年ごろアメリカでは、ジェーン・ジェイコブスが『アメリカ大都市の死と生』で人間のための生活環境の復権を唱え、近代の建築家たちが創り出す都市や建築への疑問が持ち上がってきました。
そしてケビン・リンチやハーバード大学やマルセル・ブロイヤーのオフィスで出会った同世代の仲間達は、モダニズムを再考して人間にとっての建築や都市を考えようとしていました。
芦原義信はこうした人間派とでも言える人々との交流やジョージ・ケペスやフィリップ・シールらの新しい分野である視覚構造や空間把握の研究から影響を受けました。また帰国前にイタリアの広場を訪れ、人々の暮らしに根付いている公共空間のあり方を体験することで、日本には無い「外部空間」の存在に気づくことができました。
芦原義信にとっての座右の書は和辻哲郎の『風土』であり、日本をいつも西洋に対比しながら考え、人間と環境や社会との関係の重要性を確認する拠り所にしていました。
当時、モダニズム運動の主流はコルビジェの輝ける都市や丹下健三の東京湾海上都市構想に代表されるような全体発想で形式を重んじる都市計画に向かっていましたが、人間派を自認する芦原義信は部分発想で内容を大切に考え、実体論として建築、広場、街並み、都市へとボトムアップに構成することに傾倒して行きました。


地中海沿岸の集落を訪れ街並みへの関心
バーナード・ルドルフスキーは1964年ニューヨーク近代美術館で『建築家なしの建築』と題する展覧会でモダニズムへのアンチテーゼとして地域の人々が育んできた集落の魅力を訴え、また『Streets for People』では人間的な街の公共空間を紹介しています。
芦原義信はエドガー・アレンの『Stone shelter』やMyron Goldfingerの『Villages in the Sun』などに紹介されていたその土地の風土が作りだす地中海沿岸の集落を訪れ、人間的な街並みの魅力に感動するとともに日本の雑然とした都市を憂いて、『街並みの美学』を研究する事となりました。


デロス会議と人間のための居住環境Human settlement
1971,72年にはギリシャの都市計画家ドキシアディスの主宰するデロス会議に参加して、人間のための居住環境(Human settlement)について世界各国の人間派研究者たちと議論を交わし、自らの空間論を発信しました。 
このデロス会議は、エーゲ海を客船でクルージングしながら会議をしてデロス島に上陸し大会宣言を行うユニークなものでした。歴史家のアーノルド・トインビー、文化人類学者のマーガレット・ミード、社会学者のマーシャル・マクルーハン、環境デザイナーのローレンス・ハルプリン、建築家のバックミンスター・フラー、日本からは都市社会学者の磯村英一と幅広い分野で活躍している方々が世界中から家族ずれで集まっていました。
この人間居住(Human settlement)を考える動きは、その後1972年のストックホルム環境会議や国連主宰のヒューマン・ハビタット会議に繋がり、急激な都市化による環境や人間的な空間の破壊に警鐘をならし、人間にとっての環境の大切さを訴えてきました。
私は父に連れられて参加したデロス会議でローレンス・ハルプリンに会い、その後テークパート・プロセスワークショップ手法を学んだことで、1993年に白石市のまちづくりに市民参加のワークショップ手法を導入することが出来ました。日本で一般化してきた『まちづくり』の考え方は地域の人々の生活を基本とするもので、デロス会議での議論と通じるものであると共に、私の建築・まちづくりの原点となっています。

諸元

発行
株式会社 建報社
掲載日
2018年春