2000.05.18

寄稿(芦原義信):建築新聞社 櫛風沐雨の時代

「警鐘をこめて建築は文化だ」

千葉県木更津市で終戦を迎え、東京に戻りました。でも一面の焼け野原で、もちろん自宅はありません。小田急線沿線の線路脇にあった親戚の家にお世話になり、設計の仕事を始めました。といっても設計事務所というような立派なものではなく、床に製図板を置いて図面を描くといった状況でした。その後、留学や海外の設計事務所で仕事をする機会に恵まれるのですが、欧米の都市や街並みを見たことが、今日の私の設計に対する考え方に大きく影響していると思います。街並みの美しさや景観ということを、本当に強く意識するようになりました。

ドイツは統一の美 日本の街には愕然
ヨーロッパの都市の美しさにはとても感動しました。たとえばドイツの都市は、街並みに統一し連続した美しさがあります。集合住宅を見ても日本のように洗濯物が干してあることはまずありません。窓には花が飾られています。街にマッチしながら特色があるのです。日本に戻ってきてみて、ごちゃごちゃした街に愕然としましたね。とくに電柱と電線。あれはいけない。もちろん日本にも京都のように木造建築による美しい街並みもありますが、基本的には何でもありの雑然とした街並みです。日本にヨーロッパのような街並みを求めても、文化も違うのですから無理なのかもしれません。それと、日本の発注方式が都市計画ではなく、土地対策的になってしまい、都市全体としての統一性に欠けていることも影響しているのではないでしょうか。
日本の都市がこんなになったのは、建築家にも大いに責任があると思います。ヨーロッパの場合、街全体が一つの建築家というか、単体の建築の設計をするにもかなりの制約がありますが、日本というのは、海外の建築家が来日した際によくうらやむほど、何でもありの世界です。すると、どうしても建築家の自己主張が強くなる風潮があります。

景観を乱すデザインが見受けられ残念です
自由にできることはすばらしいことです。でも、あまりにも突出し、地域の景観を乱しているようなデザインの建築も見受けられるのは残念です。建築家は、もっと街並みの統一を考えた設計をすべきだと思います。ただ、皮肉にも自由にできることが日本の建築デザイン、そして建築家を世界に知らしめたということもいえるでしょう。ある意味幸福なことですが、街並みや景観づくりについては、やはり反省すべきところが大です。
設計の仕事が順調になったころ、東大から声がかかり教鞭をとることになりました。東大初の意匠・デザインの講義です。というのも、それまで大学では計画学の講義はあったのですが、意匠・デザインはなかったのです。なにもないところから始めただけに苦労しましたが、街並み、景観、美しさということには十分意識したつもりです。
五十年以上にわたる設計活動の中で、思い出に残る仕事に一つに、東京オリンピックの駒沢公園の体育館があります。建築設計だけでなく、広場の仕事もさせていただきました。石畳の広場です。そのころ、あれだけの石畳の広場はなかっただけに、たいへんやりがいのある仕事でした。
ちなみに駒沢体育館は女子バレーボールが金メダルを獲得した会場ですが、その後も「駒沢体育館で試合すると日本は勝つ」といういいジンクスが生まれました。これもうれしく思います。
「建築は文化だ」ということも強く発言してきました。これは建築界への警鐘の意味を込めたものです。というのも欧米の建築家は芸術家として認められていますが、日本はどうでしょうか。確かに日本の建築家も文化勲章をいただけるようになりましたし、芸術院にも入会できるようになりました。でも明治時代に建築家が生まれ、高い倫理観と責任感をもちながら芸術性を追求していたのに、いつのまにか土建屋になってしまったように思えてならないのです。これは、建築学科がデザイン学部にある欧米と、工学部の中にあるわが国の教育体系の違いに起因するものだけではないと思うのです。

「壊す」だけではやっぱり寂しい
日本の都市の街並みが統一しないのは、残す文化のヨーロッパに対して、日本は壊す文化だったことも大きいですね。畳と障子の文化というか、古くなれば取り替えるというような感覚で建築も建て替えてきました。過去を振り返るより未来をみつめる。よくいえば日本はそんな文化です。どちらがいいとはいちがいに言えないかもしれませんが、壊すだけではやっぱり寂しいですね。
二十一世紀の日本の都市や建築が、果たしてどんな方向に向かうのか。ヨーロッパのような統一性をもった方向を指向するのか、それともごちゃごちゃ雑然としたアジア的な都市を目指すのか。どちらがいいというのではなく、考えどころです。日本はアジアの一員ですからアジア的でもいいと思いますが、ぜひ二十一世紀を担う建築家に街並みや景観のことを意識した仕事をしていただきたいと思います。

文/芦原義信

諸元

発行
株式会社日刊建設通信新聞社
掲載日
2000年5月