2018.01.1

寄稿:建報社 KENCHIKU 14

『第二回 正統派モダニズム建築を戦後の日本へ導入』

芦原義信はアメリカ留学から帰国して、数々のモダニズム建築の実作を世に送り出すととともに大学での建築デザイン教育を通じて、バウハウス起源の正統派モダニズム建築を日本に導入することに貢献しました。


ハーバード大学留学とバウハウスの思想
第二次大戦後にハーバード大学では、ナチスからアメリカに逃れたグロピウスやマルセル・ブロイヤーなどにより新しい建築デザイン教育が始まり、芦原義信は幸運にも留学先でバウハウスの流れを汲むヨーロッパ正統派モダニズム建築を直接学ぶことになりました。
バウハウスは新しい時代を構築するデザイナーの養成を目指して1919年にワイマールに設立され、校長のグロピウスは『バウハウスの本質は新しい様式をつくりだすことではなく、人々の生活を基本として環境の統合を目指してデザインして行くプロセスにある』と述べています。
芦原義信は教授陣から人のまねせず自分のオリジナルなデザインを考えよ( be creative, be original )と教えられたそうで、その後の建築家人生は自分の眼で見て直感を大切に、自分の考えをまとめて行く事を生涯貫き通しています。
大学院修了後はマルセル・ブロイヤーのオフィスに勤務してアメリカ流の設計実務を経験し、更に帰国前にヨーロッパの建築や街を巡って見聞を深めました。


正統派モダニズムデザインの実践
帰国後、独立第一作となる中央公論ビルでは、ブロイヤーから学んだスキップフロアーによる空間構成に挑戦するとともに、ディテールからインテリアやアートワークに至まで極めて完成度の高い建築を実現させました。
またアメリカから学んだ設計実務を日本でいち早く実践し、建築の芦原義信、構造の織本匠、設備の犬塚恵三のそれぞれ独立した3者のコラボレーションで行われました。
その後、地方都市の復興や近代化を担う公共施設の依頼を多く受けて、香川県立図書館、八代市厚生会館等のコンクリート打放しの正統派モダニズム建築を精力的に設計して行きました。
また駒沢オリンピック体育館・管制塔や武蔵野美術大学キャンパス計画では、外部空間により建築群による空間構成へ踏み込んだ挑戦を行いました。
ソニービルや富士フィルム本社ビルでは、建築を都市の関係を意識して人々アクティビティ形成や景観・街並みに貢献することを意図しています。
芦原義信は人間にとっての空間を構成することで建築を捉え、スケールを拡大させて建築群から街並みや都市までも構成していくことを目指していました。


バウハウス起源のデザイン教育の実践
バウハウスでのデザイン教育は基礎造形、工房教育をへて最終課程の建築となる3段階のカリキュラムに則って行われていました。
1927年にバウハウスに留学した当時、芸大建築科助教授の水谷武彦は、帰国後に吉村順三などの学生たちにバウハウス流の建築デザイン指導を行い、その後も芸大ではこのカリキュラムを長い間大切に継続させてきました。
一方、1964年に芦原義信は武蔵野美術大学建築学科の創設に携わり、自ら新キャンパスの設計を行うと共に、カリキュラムから教員の人事にいたるまでバウハウスを起源とするハーバード大学流のモダニズムデザイン教育を徹底して行いました。
1970年には東京大学工学部建築学科の建築デザイン講座の初代教授となり、技術教育中心の工学系大学に建築デザイン教育を導入することに貢献し、その後はハーバードの後輩の槇文彦らに引き継がれました。
私は学生時代に芸大で吉村順三先生から人間の生活を基本とした建築デザインを学び、芦原義信からは芦原建築設計研究所での8年間の実務の中で正統派モダニズム建築づくりを経験出来ました。
バウハウスの教育思想は戦前の水谷武彦の直接ルートと戦後の米国ハーバード大学を経由した芦原義信ルートとの二つにより、日本の建築デザイン教育に影響を及ぼしたと考えられます。
「人々のための空間をデザインにより統合して行くプロセス」とのバウハウスの思想こそが、芦原義信が生涯をかけて設計実務と教育の両面から迫ろうとしたものであり、正統派モダニズム建築の本質と言えます。

諸元

発行
株式会社 建報社
掲載日
2018年冬