父・芦原義信の軌跡
芦原太郎
父・芦原義信は生涯現役建築家を貫いて85歳で2003年に永眠し、2018年には生誕100周年を迎えます。
1956年芦原建築設計研究所設立以来60年に渡る膨大な設計資料が、このたび武蔵野美術大学に芦原義信建築資料アーカイブとして整理、収蔵されました。
第二次大戦後のモダニズム建築が歴史の1ページとしての意味を持ち始めたこの機会に、建築家芦原義信の軌跡を4回に渡って皆様にお伝えしたいと思います。
『第一回 芦原義信のルーツと海外への憧れ』
芦原義信のルーツを辿るとそこには海外への憧れが脈々と流れ、江戸末期から明治、大正、昭和と西洋の影響を受けながら近代化を押し進めてきた日本の有様をも垣間みることができます。
母方のルーツ <小栗上野介・小山内薫・藤田嗣治>
芦原義信の母方のルーツを辿ると江戸末期の幕臣で、徳川埋蔵金を隠したとも言われる小栗上野介(1827~1868)にいたります。小栗上野介は1860年に日米修好通商条約批准のために米艦ポーハタン号で渡米して海外での見聞を広め、明治の時代に花開く文明開化の先駆けとしても活躍しました。小栗上野介の分家である陸軍御用掛の小栗信の娘たちはみな陸軍軍医に嫁ぎ、その子供達が西洋文化を吸収して画家や劇作家など文化人として活躍することとなりました。
長女の淳は軍医の小山内健に嫁ぎ、その子供たちが小山内薫(劇作家、1912欧州視察 築地小劇場で新劇を広める)と、岡田八千代(小説・劇作家で画家岡田三郎助の妻、1930~34岡田と共にパリ在住)です。
次女の政は軍医藤田嗣章に嫁ぎ、その長女が芦原喜久(芦原義信の母)であり、次男が藤田嗣治(パリで活躍した画家)でした。
芦原義信の祖父にあたる藤田嗣章(1854~1941)は陸軍軍医総監まで務めましたが、その前任の軍医総監が森鷗外でした。
森鷗外はドイツに留学して軍医のトップに上り詰めましたが、西欧文化にふれた経験を小説『舞姫』などに著し、むしろ小説家として知られています。明治の文明開化時代には森鷗外のようなエリート達が国策で海外留学をして、西欧の進んだ医学などの学問や技術と共に西欧の文化も持ち帰っていたことを伺い知ることが出来ます。
芦原義信の叔父藤田嗣治は、森鷗外から話を聞くことで海外への憧れを募らせて渡仏し、その後画家として生涯に渡って如何に西欧文化に立ち向かうかを追求することとなりました。
第一次大戦後の大正ロマンとも言われる時代には社会の一部に余裕ができ、藤田嗣治や小山内薫などの文化人が個人で渡欧して活躍を始めました。
父方のルーツ <岡山家・蘆原家>
一方、父方のルーツを辿ると芦原義信の父である蘆原信之は、丹後で10代続いた医師である岡山家の生まれで、後に陸軍軍人の蘆原家の養子となりました。蘆原信之は明治維新の時代には手に職を持つことが大切になると考えて軍医の道を選択し、ドイツで当時最高の医学を勉強することを目指していました。
日清戦争で受けた金鵄勲章の一時金2000円で、ドイツのブレスラウ大学に2年間私費留学という形で夢を実現させました。
1900年のパリにも滞在してヨーロッパの生活を満喫し、西欧文化に感化されたようで帰国後は日本の軍医の社会には馴染めずに開業医となりました。
芦原義信はこの四谷の診療所で大正7年7月7日に7人兄弟の末っ子として生まれました。
海外への憧れから、芦原義信はアメリカへ留学
芦原義信は、父のドイツ留学や叔父藤田嗣治がパリで活躍していたことで海外への憧れを募らせていました。またバレエ・シャンソン評論家の兄蘆原英了の影響から文化的なものにも憧れて、科学技術と芸術文化の双方を併せ持つものとして建築を志すこととなりました。
第二次大戦後にアメリカは占領地域救済のために多額のガリオア資金を用意し、日本の復興支援や留学生を受け入れるフルブライト留学制度もスタートさせました。
芦原義信はこの第一期生として1951年にアメリカのハーバード大学留学を果たし、建築家として日本の復興に役立ちたいとの覚悟のもとに本場のモダニズム建築を学ぶことができました。また帰国前にはヨーロッパ各国を訪れパリの叔父の家にも滞在し、西欧の建築や街に直接触れる事で外部空間の発見や街並みへの気付きがありました。
芦原義信の建築家としてのスタンスは、この留学で方向づけられ、その後終生に渡って正統派のモダニズム建築を設計しつつ、ひとつひとつの建築が繋がる人間的な街並みを摸索し、西欧との対比や比較で日本の建築や都市を論じることとなりました。
二代目建築家である私は、幼稚園で飛行機に乗った自分の絵を描き、「太郎ちゃんはパイロットに成りたいのね」と先生に言われた際に、パイロットという職業ではなく父のように世界を飛び回って活躍する人になりたいと希望に充ち、発言したことがありました。父芦原義信のルーツにある海外への憧れは、幼い私の所にまで流れ込んでいたのでしょう。
最近は気軽に海外旅行が楽しめる時代になりましたが、祖父や父の時代は幾つもの戦争を決死の覚悟で乗り越えながら海外から学び、国や社会のために役立てればとの思いが強かったのだと思います。