施主挨拶 芦原初子

故芦原義信一周忌会 〜 日時:平成十六年(2004年)九月二十四日、場所:東京會舘

――施主芦原初子夫人よりご挨拶をさせていただきます。――

【芦原】本日は主人の一周忌を迎えまして、ささやかな法要をいとなみ、会食を催したいと思いまして、日頃から特にお世話になった方々にご出席をお願いしましたところ、皆様お忙しい中このように大勢お集まりいただきまして、本当にありがとうございました。
  考えてみますと終戦のとき復員してきまして、焼け野原に立って一人の建築家として復興に力を尽くしたいと決心してから六十年、なくなる直前までひたすら働き続けた八十五歳の生涯でございました。終戦のすぐ翌年の春に、東京都の復興計画のコンペがございまして、それに佳作になったことで、独立して建築家としてやっていく自信をもったと自分でも申しておりました。三十代で建築事務所を作りました時には、先輩の方、諸先生方のおかげで、たいへん遣り甲斐のある仕事に恵まれまして、その後も順調に続けることが出来ました。また、教職につきましても次々にご紹介いただきまして、教育にも大変深く関わることが出来ました。このことにつきましては振り返っていつも先輩諸先生方のおかげだと深く感謝しておりました。
  また主人は原稿を書くことにも大変熱心でした。五十年前にアメリカに留学した折に興味をもちました空間構成、空間秩序の問題に取組み、著作を通じ、また新聞雑誌、放送その他講演を通じまして、一貫して自分の説を訴え続けてまいりました。主人が亡くなりましてから書斎を整理しておりまして、つくづく感じましたのは、主人には二つ仕事場が有ったということでございます。昼間設計をする建築設計研究所と夜自宅に帰ってきてから原稿を書く書斎でございます。この二つの仕事ははっきりと分けておりました。毎日休まず研究所に出勤するように、家に帰ってきましても、必ず書斎に入って仕事をしないと気がすまない様で、それはどんなに遅く帰ってきても変わりませんでした。部屋巾いっぱいに作り付けた大きな机に向かって、自分の手の届くところに必要なものを全て集めて、音楽を聴きながら本を読んだり原稿を書いたりすることをとても楽しんでいた様子が目に浮かびます。
  主人は八十を過ぎましてもたいへん健康でしたので、自分の好きなことをやり続けることが出来た事は本当に幸運でございました。また、仕事の面ではもちろんでございますが、そのほか色々な場面でいつも楽しそうに、充実した満ち足りた人生を送ることが出来ましたのは、ひとえに本日ご列席の皆様方お一人お一人のお力ぞえのおかげだと思っております。この場を借りまして深く感謝いたします。
  また、主人は次の世代を担う若い建築家達の励みになるよう何か手助けをしたいと考えておりました。私どもと致しましてもその遺志を生かしまして、皆様のお力を借りて何とか計画を進めたいと思いますので、その点に関しましても今後とも宜しくお願いいたします。
  私は主人を亡くしまして、六十年間二人で築いてきた生活が突然うばわれて、なにか宙に浮いたような気分でございましたが、ようやく納得いたしまして一人の生活にも慣れてまいりました。皆様良くご存知のように主人はたいへん陽気な人でした。大げさな身振り手振りでよくしゃべり、あちこち急がしそうに動き回っていた白髪の老建築家のことを皆様時々思い出していただければうれしゅうございます。本日は行き届かない点もございましょうが、どうぞごゆるりとご歓談くださいませ。ご出席ほんとうにありがとうございました。

来賓代表挨拶 中曽根康弘

――続きまして、ご来賓を代表しまして中曽根康弘様よりご挨拶を賜りたく存じます。
中曽根様よろしくお願い申し上げます。――


【中曽根】たいへん僭越ではございますが、ご指名を頂きましたので、御霊安かれとお祈り申し上げ、ご挨拶を申し上げる次第でございます。
  私が芦原さんと初めて付き合い仲良くなったのは、昭和二十八年、芦原さんがハーバード大学に留学しているときでありました。私はたまたまハーバード大学のキッシンジャー助教授が主催するインターナショナルサマーセミナーに招待されまして、世界中の政治家や文化人がハーバード大学の寄宿舎に二ヶ月間缶詰にされました。そこで、国際問題について議論したり、音楽を聞いたり、ボストンの街に遊びに行ったりしているときに、芦原さんが建築の留学生として、おられたのであります。
  ハーバードの寄宿舎では学生食堂の食事ばかりしか食べられませんでしたので、芦原さんに“米の飯が食いたいよ”と言いましたら、“俺の下宿に来なさい”というので、下宿に呼んで、飯盒でご飯を炊いてくれて二人で一緒に食事をしました。それが病み付きで、時々“おい、米の飯を食わせろや”と言って、彼の下宿に行って食事をさせていただいた間柄で、そういう意味では昭和二十八年からでありますから、最も古い友人の一人ではないかと思います。二人の心が合いまして、二人の関係というものは、その時に時間が停止して、昨年亡くなるまで、そのときの状態が推移してきたような気がいたします。芦原さんはその後、ニューヨークの建築事務所にいったり、ヨーロッパを廻ったり。“何をやるか”と聞きましたら、“住宅と都市空間だ”そういうことを言っておりました。その後の彼の業績を見ていますと、「街並みの美学」の本を出して・・・、なるほど住宅と都市空間をやっているな・・と。そのうちに、中央公論ビルの設計で日本建築学会賞をもらい、その後銀座のソニービルをやるということで、いよいよ世の中に出てきたなと・・。我が心の友が世に出てきたのを本当に喜んだ思い出がございます。
  二人とも利害関係がある関係ではありません。ケンブリッジで米の飯を食べ合ったという、何か心のつながりというものが、そのままずっと生き続けてまいりまして、お互い心の友として付き合ってきたという気がするのです。ですからお亡くなりになったことを聞きまして、ほんとうに自分に一番大事なものの一つが失われたという感じがして、今日も遺影を前にしまして、その生涯の付き合いをしみじみと回想した次第でございます。
  芦原さんは、ともかくあれだけの高度の知性と感性をもって仕事をなさった方ですが、人間そのものは、飾らない野人のような、そのもので善意を持って人と付き合う、裏切られても善意を持って付き合う事を忘れない。そういった温かい人間性の人柄ではなかったかと思います。
  彼はサウナが好きで、「自宅の小さな庭の一角に、サウナ小屋を作ったから、おい、入りに来いや」というので、行ってサウナ風呂に入れてもらったり・・。最近ではお互い八月に軽井沢にいるものですから、二人で酒を飲んだり、そういったえも言われない心の付き合いが出来たものであります。そういう友人は人生の長い旅の中においても、そう大勢いるものではありません。世界の違う人間同士であるだけに、私にとっては非常に貴重な存在であったのであります。それだけに、彼が逝ったこと、彼を失ったことについては、本当にがっかりもし、残念で残念でたまらない気持ちでおります。
  今日こうやって大勢の方にお目にかかりまして、皆様方それぞれご縁を持って芦原さんにお付き合いされたと思いますが みんな、私と同じような気持ちでいらっしゃるのではないかと思うのでございます。今日、ご遺族のご好意でこういう機会をいただき、また皆さんとお会いすることができ、芦原さんの遺影にまた接することが出来、本当にしみじみと有難く感謝する次第でございます。整いませんが、芦原さんに対する思い出を申し上げ、本人のご冥福を心からお祈り申し上げる次第でございます。どうもありがとうございました。

献杯 犬丸直

――ここで故人を偲びまして、献杯を致したいと存じます。献杯のご発声を日本芸術院長、犬丸直様より頂戴いたします。 犬丸様よろしくお願いいたします。――
――たいへん恐れ入りますが、皆様にはご起立の程を宜しくおねがいいたします。――


【犬丸】誠に僭越ではございますが、ご指名によりまして、芦原先生の霊に献杯を致したいと思います。私は文部省、文化庁を歩いてまいりました者ですけれど、その範囲だけでいいましても、随分とお世話になりました。例えば、佐倉の「歴史民俗博物館」でありますとか、また「第二国立劇場」が出来ますときに国際コンペが行われまして、先生が審査委員長で、私も側におりまして、国際コンペというものを初めて拝見させてもらいました。その他、多数ありますが、特にお世話になりましたのは、私が近代美術館の館長をしておりましたとき、京橋のフィルムセンター、狭いところに有りましたのを、すっかり改装致しまして、おそらく、建築事業としましてはそれほど実りの有る事業ではないかと思いますが、懇切丁寧に設計していただきまして、立派なセンターに蘇えらせていただきました。その他数えればたくさんあります。先生のお人柄、親しみのある人に対する接触の仕方、それに甘えまして、色々とお願いをしたものでございます。今後とも、先生、天上から私共をお導きいただきますことを祈念いたしまして、先生の霊に対しまして杯を捧げたいと思います。どうぞご唱和いただきたいと思います。

Aテーブル 會田雄亮

【芦原太郎】今日は父との思い出をお持ちの方にお集まりいただいています。これから私が皆様のテーブルを回ってまいりますので、何か一言、父との思い出を気楽に語っていただければと思うのですが・・・。
こちらのテーブルは父が亡くなるまで会長をしておりました「日本建築美術工芸協会」の皆様です。それでは陶芸家の會田さん一言お願いします。

【會田】私はね、実は芦原さんとは近所付き合いが最初です。品川の小さなアパートにおりました頃、不動産屋に“どっか、もう少し広いところないか”と言って連れて行かれたところが、どうもきな臭いところに近寄っていくなーと思っていましたら、芦原先生の一軒手前への家だったんです。そうしたら、朝な夕な外国からお客さんが来るというと、僕も多少英語が出来たものですから、夜中に近くなって家の外から呼ぶんです。それで家に呼ばれましてそれが一番の思い出です。私としては仕事もいろいろさせていただいたんですが、一軒置いた隣のお付き合いの思い出が強いですね。ありがとうございました。

【芦原】ありがとうございました。會田先生です。「建築美術工芸協会」では父はちゃんと会長やっておりましたか? その辺は後ほどどなたかからお話を伺うことにして・・・。

Bテーブル 長尾重武

【芦原】こちらのテーブルにはいろんな方がいらっしゃいます。武蔵美のアトリエ棟をデジタルフォーラムのトップページで勝手に使わせていただいちゃったのですが、武蔵美の学長、長尾さんいかがでしょうか?

【長尾】長尾です。突然学長だとか言われ目がさめちゃうところがあります。武蔵野美術大学はアトリエ棟を保存することを機関決定したことを、皆様にご報告もうしあげます。かなり老朽化し取り壊しの上建替えるべきという意見がありましたが、全学的に、また卒業生の強い要望のもとに、たとえ困難をともなうことがあろうとも、保存することを決定いたしました。もし、そうでなければ、ここに居ることを恥じなければならないところでした。冷汗ものでした。
  芦原先生は私が東大の助手をしているときに、教授としていらっしゃって、それ以来、近くでお付き合いさせていただいています。私が留学するときに書類を出したら、私の研究室は3階なのですが、2階の芦原先生の研究室から“長尾君受けるんだって!”と先生の方から、話をしにきてくださいました。“すみません!こちらから伺わなくては”とドジをやったりとか、芦原先生とは思い出尽きないものがあります。私が、武蔵野美術大学で教鞭をとるようになったとき、先生の事務所におじゃましたり、あるいは、その後で、いろんな局面で先生のところにお伺ったりして話は尽きないんですが、一つだけ、一寸面白かったことがあります。私が友人に誘われて伺った家が、旧中曽根邸だった事に気が付きまして、“あ!これ芦原さんの設計でない?”との話になって、――中曽根さんがいらっしゃるので言いにくいんですが――そうしたら、借りている人がちゃんと雑誌をお持ちで、もちろん見てすぐ判ったものですから、芦原先生に突然電話して“先生、僕何処にいると思いますか?”と、もちろんそんなのは判るはずないんですが、“旧中曽根邸に呼ばれているんですよ!”と“え!”ということになって、“先生今度一緒に行きましょう”とか馬鹿な話をしていたことがありました。本当に普段から、気さくな先生で、留学から帰ってきたとき、1歳の娘を連れて伺ったんですが、帰りがけ先生が、娘の靴の紐を丁寧に締めてくださったのです。“これはまいったな!”ということもありました。いろいろ、話は尽きないんですけれど、武蔵野美術大学建築学科の方で先生のことを記念した賞を作りたいと現在進めています。先ほど太郎さんの方からも話がありましたのは、在学生の優秀作品に差し上げるということを続けてまいりましたが、次のステップとして、卒業生に向けての賞を作ろうということで、いま、鋭意準備を進めているところです。ささやかなものにはなるかと思いますが、武蔵野美術大学の建築学科でそういう賞を作らせていただけるというのは幸福に想います。どうぞ宜しくお願いします。どうもありがとうございました。

【芦原】どうもありがとうございました。そのような賞が出来ると父も喜ぶのではと思います。

Eテーブル 吉田あこ

【芦原】こちらのテーブルは芦原建築設計研究所のOBの方々がいらっしゃいますが、代表の井上さん、どなたにお願いしましょうか?

【井上】吉田あこさんが・・・。吉田さんは駒沢のHPシェルの屋根の計算解析を構造設計家織本のもとでやったんです。当時は、手巻きの加算機というのですか、そういうので解析したという歴史的なものがあります。吉田さんお願いします。

【吉田】私、ただいま吉田でございますが、芦原先生のところで働いておりましおたころは、日下(くさか)と申しました。オリンピックの駒沢体育館をコンペで取るんだからというので、神谷町の分室にマンションの一室を借りました。そこで、こちらにいらっしゃる二宮さんが模型製作で、沢田さんがデザインで、私が構造デザインの分担になって、次々といろんな案を考えました。六時過ぎになると芦原先生が現れて“何を考えた?”ということで、シェルがやりたいと言うと、アメリカのシェルのデザインの本をいっぱい持って来られました。そのまま再現しても亜流でだめだというわけで、簡単なHPシェルですが庇がガーット出た変形HPシェルになり、とても構造計算に乗らないわけでございます。でも模型は作る事ができます。実施ではコンクリートの1/20の模型を作って潰すことによって荷重、その他の確認をしました。

【芦原】模型実験をやったんですか?
【吉田】それをしないことには、当時の計算機では・・・。法政大学構造の青木繁先生のご指導もありました。
【芦原】計算だけでは心配・・・。

【吉田】ということで、入札条件として模型実験を加え、荷重実験もしました。それから数十年して、芦原先生が“あれは絶対に壊さない、エクステンションする!”とおっしゃいました。庇の下に芦原先生が大好きなサンクンガーデンがありますので、それをエクステンションの場にするのでいろいろ直すが全体は元のままにするから見に来てくださいということで見に行きましたら、すばらしいリフレッシュになっていました。お金は新しく作るのと同じくらい全部使っちゃったとおっしゃっていました。私は、建築家というのは執念を持つべきだとつくづく感じ、とってもうれしく存じました。さきほどJIA賞を受賞したとか?

【芦原】JIAの25年賞です。出来てから25年経った建物の賞のです。

【吉田】残しておいてよかったですねー(笑)。芦原先生が基本的な模型は確定したんですが、あとは参加型で、周辺のアンダーパスに入るところや照明とかコントロールタワーなど、保坂さん伊原さん等、所員全員がデザインに参加して、模型の上に加えていったのが全部実現されていったわけです。たいへん少ない予算でしたから、東京都の方にはたいへん迷惑をかけて申し訳なかったのですが、此処まで来たら実現するという執念に感心しました。

【芦原】駒沢体育館は私が小学生の頃、父に連れられて見に行った記憶があります。

Fテーブル 内田祥哉

【芦原】こちらのテーブルには建築界の重鎮の方々がいらっしゃいますが、私の恩師でもあります内田先生、父に何か一言ございましたら。

【内田】私は芦原先生とは断片的に何遍かお付き合いしました。最初は、学生時代で貧乏だったので坂倉建築事務所にアルバイトにいったのです。その頃はアルバイトがはやっていない頃で、芦原さんが所員としていて“内田君アルバイトか?“と言われたことを思い出します。それから、たいへん印象的なのは、大学の紛争のとき先生は学校へ来られて、一緒に紛争を見たり楽しんだり、(笑い)戦ったり、そういったことをいたしました。それから、お止めになってからも随分お付き合いしました。けれど、大学に残した芦原先生の業績は、名誉教授を任期七年に縮めたことですね。皆さんご存じないかも知れませんが、芦原先生のおかげで、七年東大に勤めると名誉教授になれる、私立の大学ではありえないような事を実現されました。(現在は4年になりました。)

【芦原】イヤー、そうですか、知りませんでした。ありがとうございました。

Gテーブル 中根千枝

【芦原】いろいろな方々がいらっしゃいますが、東京大学名誉教授の中根先生がいらっしゃいますので一言。

【中根】私は、お世話になっているばかりで、何も先生のために出来なかったことを今、後悔しています。先生とは色々な会議でご一緒になりましたし、私が関係しています委員会にも先生をお誘いしました。先生がいらっしゃると、パーっとその会議が明るくなりまして、先生がいらっしゃるということだけで会議が楽しくなる感じでございました。お酒を召し上がっても食事をしても楽しそうで、こんなにいつも楽しそうにしていらして、すばらしい建築をお建てになるときはどんな顔をしていられるのか不思議な感じがいたしました。先生の建築を拝見しながら、いつもお会いしたときの冗談をいわれる先生と結びつかなくて、どういうふうになっているのかいつも不思議でした。
もうひとつたいへんお世話になった事がございます。それは、私が二十数年前ですが引越しをしようと思いまして、マンションがいろいろあって迷っておりましので、先生にこちらの希望を簡単に云って、いいマンションを選んでくださいとお願いしました。先生が東大を定年になられるころでしたが、早速パンフレットを送っていただき、これがいいだろうとおっしゃっていただきました。お忙しいのにと感謝して、早速そのパンフレットに載っている所に行ってみたのですが、何にも建っていなくて、土地を掘り起こしているだけでした。先生に“何にも無かったんです”と申し上げましたら、“それは、自信のある仕事をしているんだな”とおっしゃいました。そのお言葉を聞いて、それではこれが良いに違いないと購入することにきめました。出来て住んでみましたら、希望どおりのとても気持ちの良いマンションで今もずっとそこに住んでいるんです。それも先生に大いに感謝している理由のひとつです。

【芦原】どうもありがとうございました。

来賓挨拶 北代禮一郎

【芦原】こちらは、あおい組(芦原・織本・犬塚の建築・構造・設備のネットワーク)・・、父とは縁の深い方々がお集まりですが、それでは建築家の北代さん一言お願いします。

【北代】突然のご指名ですが、芦原さんにはほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。今まで、皆様、芦原先生、先生とおっしゃいましたが、先生と呼ばれるのは芦原さんあまり好みではなかった。“芦原さん”でいいんではと思います。私はまだ若いころ、独立したときに芦原さんにご指導いただきました。昭和二十四年ですから、丁度五十五年前になります。

【芦原】もう、そんなになりますか。
【北代】ここに仲間がおります。隣にいるのが犬塚で建築設備研究所という設備の事務所を経営しています。私とは旧制一高の同じ組です。私が芦原さんの後でアメリカに行った頃、犬塚は、これからは建築設備の時代だというので設備事務所を作りました。その隣が織本事務所の織本匠さんのご子息です。織本事務所には、芦原さんのご紹介で私の事務所が設計した殆どの建物の構造をやっていただいています。芦原さんより数年先になくなられました。仕事はこのグループでしていました。仕事で伺っても、“禮ちゃん頑張れよ”ということで、あんまり深刻なことはないんです。芦原さんと打ち合わせをしているときに太郎君が生まれて、太郎ちゃん太郎ちゃんとほんとうに可愛い赤ちゃんでした。今は大きくなって・・・。

【芦原】もう五十過ぎました。
【北代】芦原さんはゴルフがあまりお上手でなく、私と同じゴルフクラブに入っていらっしゃいましたが、めったに来られなかったのです。その代わり私が太郎君をそのゴルフクラブに紹介したら、太郎君はたちまち私よりハンディが上になりまして、若いから飛ぶんですよね。たまには先輩に敬意を表して・・・(笑)。太郎さんはお父さんの性格を引いてたいへん明るい性格の青年で・・、もう青年じゃないよね。彼は日本の建築界にとって非常に大事な人です。今日は中曽根先生もお見えですが、日本建築家協会が世界の建築家の大会を招聘しようとして今まで二度失敗しています。その委員長が今日お見えの槇文彦さんで、その下働きを太郎さんがやってくださっています。来年イスタンブールで大会が開催されますが、2011年には東京大会を実現しようとする活動の中心人物ですから、今日はお父さんのことでなく太郎君のことを、皆さんによろしくおねがいします。(拍手)

【芦原】ありがとうございます。

Cテーブル 野澤亨

【芦原】こちらの席は銀座ロータリークラブの方々ですね。野沢会長、一言お願いいたします。
席より ―短くネ――

【野沢】先生とも長いお付き合いでございまして、昔は巴組鉄工所と申しておりました巴コーポレーションの社長をしておりましたが今は引退の身でございます。このたびロータリークラブのお役が回ってまいりまして、こういうところにご一緒させていただいているんです。若い頃から先生にはたいへんお引き立ていただきまして、思い起こせば大阪万博だとか、それ以前からも・・、私共にはダイヤモンドトラスがございますので、それでお引き立ていただきご厄介になった次第であります。渋谷の住友生命ビルの事務所に何回か伺いまして、秘書の美しい方とか(笑)。お時間をとっていただいたとかの思い出があります。また太郎さんにはロータリーの方でご一緒させていただいていますし、また、奥様はロータリーに土曜会というのがございまして、そこではボランティアで老人の・・・、皆様もその内ご厄介になるかもしれませんが(笑)、おむつのご奉仕をしてらっしゃいます。家内もご一緒させていただいています。今度はインターネットでフォーラムをやるそうで、なによりでございます。諸先輩もいらっしゃいますので、あまり自慢にもなりませんが、現在七十八です。お蔭様でこのように元気で過ごさせていただいています。どうぞひとつ皆様もお元気で! 北代先生が今おっしゃいました2011年東京大会に向かいまして一つ頑張りたいと思います。どうも失礼しました(笑)。(拍手)


Dテーブル 竹鶴威

【芦原】こちらもロータリークラブですね。芦原会を竹鶴会に継承されたニッカウヰスキーの竹鶴さん、一言。

【竹鶴】私は芦原先生とは、ロータリーで長いお付き合いがございました。先生、夜の世界も大好きでありまして(笑)、奥様もご承知と思いますが、よく銀座を飲み歩いたこともございました。先生のご功績を永久に称えようということで、どうせ私達のことですから、まともな名前ではございません「芦原ゼミナール・現代音楽研究会」という会をいまだに毎月銀座でやっております。中味は先生も大好きでございましたカラオケ会です。ご希望の方は、ご遠慮なくご参加いただきたいと思います。

【芦原】この間、私も参加させていただきました。

【竹鶴】そうですね。太郎さんもご参加いただきまして、やはり後継者としては是非、名前を残していただきたい。本当に長年おせわになりました。今日はたいへんありがとうございます。(拍手)

Nテーブル 大野秀敏

【芦原】親戚のテーブルはさておきまして、こちらには東大の研究室の学生さんだった皆さんがいらっしゃいます。今や、東大の先生になられたという大野さん。

【大野】芦原先生は名言を多く残された方 で、その中に、「人生には三度幸運の風が吹く」というのがございます。三度というのが絶妙で、一度というと、誰でも子供の頃に一度は吹いていると思います。二度しかないとなると大人になって一回しかないということで切羽詰った感じになります。三度となると、もう一回吹くかな?となって希望がでてくる。私達はこれから吹く幸運の風を期待して荒海に出きました。

【芦原】そうですか。大野先生は三度目の風は吹いたのですか?これからですか?

【大野】そこが微妙なんです(笑)。




Lテーブル 大田純穂

【芦原】こちらのテーブルは芦原建築設計研究所の中では若手のグループですね、それではOBの大田さんいきましょうか。

【大田】大田と申します。私は芦原先生が東大に来られて二回目の教え子です。設計を教えていただきまして、卒業のとき行きたい事務所はいろいろあったのですが、是非うちに来なさいということで、芦原事務所にいきました。それから十七年間お世話になりました。芦原先生からは考え方だけでなくゼスチャーとか話しっぷりなどもお教えいただいて、現在設計事務所をやっております。芦原先生と一緒に国立近代美術館のフィルムセンターの仕事をしておりましたとき、ヨーロッパ、アメリカを1ヶ月ほど先生と二人っきりで旅をした事があります。そのときは、芦原先生は良くお食べになるし、ものすごくテンポが速いし、私の方が若いのですがついていくのがたいへんでした。いろんな有名な方々、アメリカでは国会議員の方とか、フィンランドではノルベルグ・シュルツという建築家の方々の会食に出していただいたり、大変いい経験をさせていただきました。わたしの人生の中で、芦原先生の影響は非常に強いと思います。これからも芦原先生の教えを守って設計を進めて行きたいとおもっております。

【芦原】本日は皆様からいろんなお言葉をいただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)


お礼の挨拶 井上一

――ご歓談は尽きないようでございますが、ここで芦原建築設計研究所代表井上一より一言御礼を述べさせていただきます――

【井上】本日はご多用のところ、このように多数の方々にお集まりいただきありがとうございます。事務局を代表しまして一言ご挨拶をさせていただきます。今日の献立は、ボスがそこにいらっしゃるよう一緒に相談して、奥様のセンスでまとめ上げたものになったかと思います。私も亡くなった直後は何か、あれもこれもと思っている間に、一月経ち二月経ちあるいは半年経って、所長のいろんな事が交錯しまして、今日このような会で謝辞を述べる事が本当に出来るかというくらいどきどきしているんですヨ、おとっあん!(笑い)。そんなわけでメモしておいたほうがあやしくならないかなということで失礼します。
  この一年をかいつまんで申しますと、所長がいろんな方面に関係していたというか、委員会や文化活動などの、非常に多い資料がございますので、そういうものが、あんまり散らばらないようにするとか、情報としてきちっと整理するとかと言うようなことを心がけまして、まず文化事業部の初仕事としてそのようなところから手を付けた訳ですけれど、これまた、手をつけてみますと余りにも膨大な資料からくるボスのメッセージの多さに、ついつい手が止まってしまうこともありました。そう言いながらも一年経って一段階、何か大きくブロック分けくらいは出来たかなという実情でございます。一方、我々の事務所の方としましては、先ほども一寸話に出ていましたが、約300の作品を設計してまいりまして、ほぼ、現役で動いていますので、きちっと建築家としての責務を果すいみと、これからは建物の長寿化といいますか、本来、建物を大事にする意味で活性的保存を積極的に提案して行くために、これまでありました設計図や記録類を整理して、それを一つの原資として次のステップにして行こうということを今やりつつあります。これについては、建築の設計の世界を取り巻く状況は極めて 変革しておりまして、良いほうにいっているか、悪いほうに行っているかはクェッションマークなのですが、多分ボスはかなり大きいクェッションマークを付けるのではとおもいますが、そのようなことにも対応していかなければなりません。これは、太郎さんの方と協調して、コラボレーションみたいにやりながら、事務所全体が新しい時代にも対応できるように基盤整備をやっております。
  先ほどのホームページの武蔵野美術大学のアトリエ、あれはボスが岡山の吉備団子の菓子箱の仕切りをデザインのアイディアにしているんですね。(笑い)多分食べながらおもいついたんでしょう。そういうようなことだったんではと思います。いずれにしろホームページの内容を拡張して、見ていただけるようにしていきます。まだお披露目の段階ですので、芦原義信デジタルフォーラムとして整備し拡充していく所存であります。これは芦原建築設計研究所の設計の本業ともう一つの柱である文化事業の一つの仕事の一番目の成果と見ていただいて、徐々に良くしてまいります。また楽しみにしていただければとおもいます。というようなことでございますが、今此処に立っていますと、全く同じこの場所で六年前に“おとっあん”が文化勲章を受けたきの事をふっと思い出して、ジーンと来てしまうような感じです。本当に月日の経つのは早いな〜とおもっています。先ほどはテーブルにあがりまして、失礼もあったかもしれませんが、ボスらしいアイディアを入れてと思いましてああいうかたちを取らせていただきました。おしまいになりますが、故人が晩年非常に力を注いでまいりました、日本建築美術工芸協会の毎年行っていますシンポジウムで、もう十年くらい前ですが、「日本の都市空間と富士山」という非常に興味深いシンポジウムが静岡でありました。内容はさておき、芦原所長は、あのバランスのいい富士山が非常に好きでしたので、多分、富士山のゆったりした心というか感じがボスに合っていて、事務所の中におりましては、ボスはまさに富士山でありました。私なんかにも自信が付くようにやっていただきまして、近年、自信と不安が交差する中で、ボスがそのように仕向けていただいたことで、やっと矜恃の心境に到達してきたかなというのが現在でございます。ボスは富士山の良く見える彼岸に眠っていらっしゃるわけですけれど、多分今日はこの辺にいらっしゃるのではと思います。正に彼岸と此岸ということでございますが、ここにいらっしゃって、われわれのこの会を、何か一寸手を出したいとか、料理を如何ですかと持って行きたい感じもあるんでしょう。今日はおとなしくそこにいらっしゃいますので、そんなことでございます。
  ほんとうに今日は皆様のお力をかりて良い会になり、ボスにいい供養が出来たことを心から感謝しております。この上は皆様のご健康と平安を祈ってこの会を閉めさせていただきたいとおもいます。戒名は申しませんので、最後に仏道無上誓願成、本日はほんとうにありがとうございました。(拍手)

――以上を持ちまして芦原義信一周忌会を閉会させていただきます。お開き口にて施主、親族が皆様をお送りもうしあげます。お手回り等が整いました方より、どうぞお進みくださいませ。お開き口にては、お土産をお渡しさせていただきます。尚、ロビーにて故人の著書を展示しておりますので、ご覧いただき、宜しければお土産と一緒に、ご自由にお持ち帰りくださいませ。本日はどうもありがとうございました。――(拍手)