掲載年月 | 掲載誌 | 発行 | タイトル | 執筆者 | 書き出し・抜粋文章 | 備 考 |
1970 52歳 東京大学教授 日本建築家協会会長 | ||||||
1970-00 | Illustrated International Architecture Index 3 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1970-00 | ディティール | 日本万国博・オ−ストラリア館 | ||||
1970-00 | 夏季 ディティール25 | ソニービル | ||||
1970-00 | 建築家 | 第3回建築学生夏季ゼミナール | 有田和夫(広報委員長) | 冨士フイルム東京本社ビル | ||
1970-00 | L'architettura | 日本万国博・イタリア館 | ||||
1970-01 | アジアフォーラム | 財 アジア経済人クラブ | 人間的魅力のある卒業生 | 芦原義信(東京大学教授・建築学) | ||
1970-01 | 病院 | 医学書院 | 病院における成長と変化 | 守屋秀夫 | 横浜市立市民病院 | |
1970-03 | DOMUS 484 | 日本万国博・イタリア館 | ||||
1970-03 | 月間 香川 | 香川県 | 座談会 環境と建築 | 司会:伊藤ていじ 浅田孝、大高正人 芦原義信、浦良一 神谷宏治、流政之 大江宏、青木繁 岡本剛、中根金作 高岸正剛、吉阪隆正 神代雄一郎 丹下健三、田中和夫 金子正則〔県知事) |
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1970-03 | 建築文化 | 彰国社 | 外部空間における Hierarchy | 芦原義信 | 外部空間の構成において、その空間が一つの場合、二つの場合、多数複合される場合などが考えられるが、その空間にある種の空間的秩序、または順位(hierarchi)というものをつくりだすことができるだろう。 | 貿易研修センター |
1970-03 | 建築文化 | 彰国社 | 研修センターにおける考え方 | 井上一 | 貿易研修センター | |
1970-03 | 新建築 | 新建築社 | 貿易研修センター | 守屋秀夫 | 貿易研修センターは、企業が貿易などのために海外の支店や営業所に派遣する駐在員に、派遣に先立って語学や地域学(地理・歴史・風俗・国民の感情や性格等を学ぶ)、貿易実務などを研修させる学校である。 | 貿易研修センター |
1970-03 | 商店建築 | 商店建築社 | 日本万国博・イタリア館 | |||
1970-04 | JA | 新建築社 | INSTTUTE FOR INTERNATIONL STUDIES AND TRAININNG | 記事 | 貿易研修センター | |
1970-04 | Bauen und Wohnen(工業館) | 日本万国博・イタリア館 | ||||
1970-04 | 家づくり No06 | 勧銀ハウジングセンター | 私の見た世界の住まい ハンガリアのアパート |
芦原義信 | ・・・街をぷらぷら歩いていると木造のアーチ型の入口が目についた。その入口を通りぬけると、狭いながらもいかにも人問的スケールの中庭があり、それに面して二階建てのアパートがあった。ハンガリヤには友人がいないので、家の中まで見ることができず残念であったが、この中庭にはちょっとした親しみと連帯感があり、いかにも使いよさそうであった。 | |
1970-04 | 建築文化 | 彰国社 | ELECTRIC LABYRINTH TYPE | 記事 | 外観を見ればうなずけることではあるが、有名な日本の版画である北斎の富獄36景のうち"神奈川沖浪裏の富士"からヒントを得たというこのパビリオンは、大別して三つの要素から構成されている。 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
1970-04 | 正論 | サンケイ出版 | 人間のための都市づくり | 中曽根康弘(衆議院議員) 芦原義信(建築家・元東大教授) |
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1970-04 | 色彩情報 | 理事の近業 芦原義信 富士フィルム東京本社ビル |
記事 | 建物の両側に非常階段がある。赤と青である。赤坂側が”赤”、青山側が”青”である。偶然の一致なのかも知れないが、色による識別としては旨くいきすぎている。 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1970-05 | Baumeister | Arbeit im Glashaus | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1970-05 | 亜鉛鉄板 | 日本万国博・イタリア館 | ||||
1970-05 | 商店建築 | 商店建築社 | オーストラリア館の建築と展示空間 | 久田晃(芦原義信建築設計研究所) | オーストラリア館の建築は3つの部分から成る。導入部は地上39mの高さまでカンチレバーでそびえる曲面のsky-Hookとこの頂点から吊りさげられた直径48拠の円屋根とでできている。 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
1970-05 | 新建築 | 新建築社 | 記事 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
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1970-05 | 近代建築 | 近代建築社 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
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1970-05〜06 | JA The Japan Architect |
新建築社 | 記事 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
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1970-06 | L'Architecture d' Aujoure'hui | 日本万国博・イタリア館 | ||||
1970-06 | Toda Construction 12 | 日本万国博・ニュ−ジ−ランド館 | ||||
1970-06 | 架構・空間・人間 日本万国博建築写真集 |
第2回日本建築祭実行委員会 | 日本万国博・オ−ストラリア館 日本万国博・イタリア館 |
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1970-06 | lighting | 山田照明 | 霞ヶ関ビル | 記事 | 超高層ビルの大きな魅力の一つは、利用者が眼下にひろがる景観を十分たのしむことができるということである。同会館の照明プランも、利用者が高い所から眺望をたのしみながら食事をできる雰囲気づくりに焦点を絞った。 | 霞が関東京会館 |
1970-06-06 | 週刊新潮 | 新潮社 | 新潮ギャラリー 万博の色 北斎からのヒント オーストリア舘 設計 J・マコーミック |
記事 | 空中に弧を描いて伸びる”空の鉤(かぎ)”から宙づりになった円盤状のパビリオン 隣り合ったアメリカ館が寝そべるように低く低く屋根を広げているので対照的な面白さを見せているオーストラリア館だ | 日本万国博・オ−ストラリア館 |
1970-07 | 家庭画報 | 世界文化社 | 林の中のサウナ小屋 箱根 | 記事 | サウナ | |
1970-07 | SHIMIZU BULLETIN | 清水建設 | 日本万国博 オーストラリア館 | 記事 | 日本万国博・オ−ストラリア館 | |
1970-10 | 学士会会報 No709 | 建築の内と外 | 芦原義信 | ある会社に勤めている私の友人が、先日、その会社の社長によぱれてあれこれ懇談した際、将来は君にこの会社をしょってたってもらいたいむね、内々に話があったそうである。そう云われた日の帰りみちにふと自分の会社のビルをあおぎみて、ああ、これが自分が将来しょってたつ会社なのかと、今まで感じたこともない責任をひしひしと感じたという話である。 | ||
1970-9 | 家づくり | 勧銀ハウジングセンター | 間取り その実例 | 記事 | ||
1970-10 | ハウジング | 中央公論社 | 私と住宅 | 芦原義信 | ・・・フィンランドに行ってサウナに魅せられた。美しい森と湖にかこまれた友人のサウナ小屋 思い切り汗を流して冷たい水を浴びる。控えの部屋でステレオを聴き語らいながらビールの栓を抜く。なんとも言えないいい木の香りがして いっぺんに病みつきになった | サウナ |
1970-11 | 設計製図資料 オフィスビルの設計例 |
日本建築学会 建築計画委員会 | 中央公論ビル | 中央公論ビル | ||
1970-11 | 建築界 | 主動線における明快な人・車の分離 <富士フィルム東京本社ビル> |
記事 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1970-11-12 | 週間現代 | 通産省でいま熟読されている一冊の本 「日本人とユダヤ人」 |
取材記事 芦原義信 | 国際的な仕事をしてみると、日本人の”おまかせします”という相互信頼がいかに外国人に通用しないか、よくわかります。これを”日本教の教義”という形でとらえたペンダサン氏の解釈は、おもしろいですね。 | ||
1970-12 | Fortune | Concrete needies the aky | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1970-12 | 新建築 | 新建築社 | 海外ネットワーク イラン |
芦原義信 | イラン政府の主催による「伝統と近代技術」というテーマの建築国際会議が開かれたのを機に、久し振りでヨーロッパを駆け巡ってイランヘ行ってきました(8月末〜9月下旬)ヨーロッパヘはモスクワ経由でパリに入り、私の好きなルアンのゴシック寺院を訪ね、バリでノートルダム周辺のマレー地区で推進されている文化財保存の現状を見・・・ | |
1970-12 | 婦人公論 | 中央公論社 | 靴をぬいで | 芦原義信 | 今も、しとしとと窓辺をうつ雨の音を聞きながら、あの強烈な太陽と砂漠の国イランのことをありありと思い出すのである。・・・私に強烈な印象をあたえたのは、イランの庶民の生活を、その集落で見学したときであった。 | |
1970-12-12 | 読売新聞 | 読売新聞社 | 高密度社会の生活 | 芦原義信 | 向こう三軒両隣、どこをみても人々、車々、家々のこの東京のような大都会で、交通事故がおきなかったり、人々が言いあったりしない方が不思議なくらいのこの高密度社会では、一体全体、どのようにして他人と摩擦なしに、うまく暮らしていったらよいのであろうか。 | |
1970-No12 | 銅 | 日本銅センター | 日本万国博・イタリア館 | |||
1971 53歳 | ||||||
1971-00 | l architecture francaise | 冨士フイルム東京本社ビル | ||||
1971-02 | Baumeister | 貿易研修センター | ||||
1971-03 | PIEMME | 志野陶石 | 芦原義信 | |||
1971-03 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 芦原義信氏そのパーソナリティーと作品 | 浜口隆一(インタビューアー) | 浜口:芦原さんは「毛並みがいい」というのが定説だけれど、どとらかというと努力の人だな。しかし、楽しそうにやるところがいいんだね。 | |
1971-03 | 現代デザイン講座=5 デザインの方法 |
風土社 | 外部空間論 | 芦原義信 | ||
1971-04 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 竣工五年後 茨城県民文化センター |
本上俊好 | かつては、遠見するにすぎなかった、この建物も、今後、近寄ってその内部までのぞいてみると、今、こうして「竣工五年後」の意味を書く気すら起さぬほどの駄作であることに気づいた。 | 茨城県民文化センター |
1971-05 | 伊奈だより | 伊奈製陶 | 素顔の芦原義信 | インタビュー記事 | ||
1971-06 | Projekt | Exteria Design in Architecture | T.B | |||
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 座談会 コミュニティーとプライバシー |
座談会 中根千枝 吉阪隆正 芦原義信 栗田勇 解説 福田晴虔 |
駒沢公園体育館・管制塔 ソニービル 武蔵野美術大学 モントリオール万国博覧会日本館 貿易研修センター 冨士フイルム東京本社ビル |
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1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 内と外 | 芦原義信 | ||
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 合理的回帰 | 福田晴虔 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 逆説 対抗と疎外 | 福田晴虔 | ソニービル | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 基壇上の開放感 | 福田晴虔 | 冨士フイルム東京本社ビル | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 富士を借りて | 福田晴虔 | 貿易研修センター | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 機能的磁場 | 福田晴虔 | これは芦原の外部空間の理論がフルに活用された作品である。彼が六四年にここに召聘されるとただちにその建設計画が始まり、アトリエ棟、デザイン棟、鷹ノ台ホール(学生ホール)、図書館、彫刻棟、絵画棟、そして本館と、着々と工事が進められた。 | 武蔵野美術大学 |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 新しい町屋 | 福田晴虔 | 日本郵船青山寮 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 抑制の美徳 | 福田晴虔 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 象徴と孤立 | 福田晴虔 | 横浜市平沼体育館 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 精緻なるリズム | 福田晴虔 | 茨城県民文化センター | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 光と影 乾いた情感 | 福田晴虔 | 岡山県児童会館 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 「間」 コネクターとしての空間 | 福田晴虔 | 香川県立図書館 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 或る優しさ | 福田晴虔 | 自律的な外部空間の獲得を目指す芦原の建築手法が、ここでは殆どそれと意識されないほどしっくりと周囲の環境に溶けあい、おちついた雰囲気がつくり出されている。苔むした八代城趾の石垣と蓮の生い茂る濠、周囲の緑などが、芦原が外部空間に対して要求する建築とのコネクター的な役割以上のものを提供しており、彼はこれらを存分に利用しながら、石垣と対抗しうるような新しいランドマークの創造を目指したのであった。 | 八代厚生会館 |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | きめ細やかな | 福田晴虔 | 杉並区立杉並会館 | |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 制約を超えて | 福田晴虔 | 現在でははや昔話になりかげた高さ制限三十一メーターという法規のため、きわめて狭い敷地に延床面積にして十一階分にもおよぶ内容を詰めこまなければならなかった | 日本航空ホテル |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 時の中で | 福田晴虔 | 時の中で この建物は、三ツ沢公園の窪地をへだてて、丁度平沼体育館と向かい合う丘の上に建っている。芦原にとってははじめての病院建築であったが、病院建築の定石をふまえながらもその完成度の高い建築手法によって、六十一年度の建築業協会賞をうけている。 |
横浜市立市民病院 |
1971-06 | 現代日本建築家全集 | 三一書房 | 再生を期して | 福田晴虔 | 日本ではじめてつくられたユースホステルのひとつとして、そのプランニングが後の多くのユースホステル建築の基本型とされた、歴史的なものである。 | 日光ユースホステル |
1971-07 | キリンサービス | 麒麟麦酒 | あの時 この酒 森と湖とサウナ小屋のビールと |
芦原義信(建築家) | サウナ | |
1971-10 | Architects Working Details 14 | ソニービル | ||||
1971-10 | Architects Working Details 14 | 日本万国博・ニュ−ジ−ランド館 | ||||
1971-10 | ソニービル5年間の記録 | ソニー企業(株) | ソニービル5年間の記録 | ソニービル | ||
1971-10 | EKISTICS | International versus external order | Yoshinobu Ashihara | |||
1971-11 | 新建築詳細図集 集合住宅編 |
序文 | 芦原義信 | |||
1972 54歳 | ||||||
1972-00 | -- | 竣工五年後 区立杉並会館 |
近江栄 黒沢隆 本上俊好 源清和 桜間暁 大沢匠 | 杉並区立杉並会館 | ||
1972-00 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 第9回デロス会議 | 芦原義信 | ||
1972-00 | The PACIFIC | 記事 | 貿易研修センター | |||
1972-01 | 家づくり | 第一勧銀ハウジング・センター | 「うち」と「そと」 | 芦原義信(建築家) | ||
1972-02-15 | 日刊建設工業新聞 | 日刊建設工業新聞社 | 建築人間雑記 | 高杉造酒太郎 | ||
1972-03 | The Canberra Times | Vistas and plazas in modern design_2 | ||||
1972-03 | 家づくり | 第一勧銀ハウジング・センター | エクステリア 斜面の庭 |
芦原義信(建築家) | 庭 | |
1972-04 | 新建築 | 新建築社 | タンザニア国際コンペの審査にあたって | 芦原義信(建築家 東京大学教授) | ||
1972-04 | 銀座ロータリー週報 | 雑木林のすすめ | ||||
1972-05 | 芸術新潮 | 新潮社 | 私の選んだ日本三景 | 芦原義信(建築家) | ||
1972-05 | 新建築 | 新建築社 | 武蔵野美術大学体育館 | 澤田隆夫・高田英夫 | 武蔵野美術大学 | |
1972-05 | 家づくり | 第一勧銀ハウジング・センター | エクステリア 庭の韻律 |
芦原義信(建築家) | 庭 | |
1972-06 | 家づくり | 第一勧銀ハウジング・センター | エクステリア 老後の庭 |
芦原義信(建築家) | 庭 | |
1972-07 | 開館10周年記念 厚生会館の10年 |
八千代市厚生会館 | 八代厚生会館 | |||
1972-08 | 銀座ロータリー週報 | 東京銀座ロータリークラブ | 老後の庭 | 芦原義信 | 庭 | |
1972-08 | A+U | エー・アンド・ユー | インドの風土と建築 | 座談会 芦原義信 吉阪隆正 飯塚キヨ |
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1972-08-04 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 日本万国博・オ−ストラリア館 | |||
1972-09 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 標的 造らない建築家 |
回廊 | ||
1972-09 | ART AND ARCHITECTURE | (イランの雑誌) | YOSHINOBU ASHIHARA | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1972-09 | 家づくり | 第一勧銀ハウジング・センター | エクステリア ギリシャの島々 |
芦原義信(建築家) | ||
1972-10 | 銀座ロータリー週報 | 東京銀座ロータリークラブ | 若者の庭 | 芦原義信 | ||
1972-10 | SD | 鹿島研究所出版会 | 武蔵野美術大学体育館 | データシート | 武蔵野美術大学 | |
1972-10 | ディテール | 彰国社 | 特集/外部空間のディティール《水をデザインする》 茨城県民文化センター |
記事 | 茨城県民文化センター | |
1972-12 | 銀座ロータリー週報 | 東京銀座ロータリークラブ | 庭のたき火 | 芦原義信 | ||
1972-夏 | 建築家 | 日本建築家協会 | 建築はどうなる | 芦原義信 黒川紀章 |
芦原 "建築はどうなるか"というようなテーマで討論をやれということですが、実は私の方が聞きたいぐらいなことで、自らそんなことについて語るなんていうのは、きわめて潜越なことではありますけれども、最近おりにふれて、いろいろ考えるところもありましたので、そんなことを披渥して皆さんのデでスカッションのまないたに乗せていただけたらと考えるわけです。 | |
1973 55歳 | ||||||
1973-00 | 近代の美術 No19(現代の建築) | ソニービル | ||||
1973-00 | アサヒ ハウジング フェアー | 住まいの動脈・静脈 | 芦原義信(建築家・東京大学教授) | 最近の住宅をみると、台所や浴室の給排水のパイプ以外に、給湯や冷暖房関係のパイプ類、水洗便所の排便管など、在来の住宅にくらべると種類もふえて複雑になってきた。それにつけても思うのだが、人間の体の血管や消化器系のパイプ類は、たまに動脈硬化したり、潰瘍になったりするにしても、まあよく平均寿命の70年以上も持つものである。 | ||
1973-00 | ART AND ARCHITECTURE | (イランの雑誌) | YOSHINOBU ASHIHARA | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1973-01 | 家づくり No39 | 第一勧業ハウジングセンター | スペインの穴居生活 | 芦原義信 | ||
1973-01 | 聖教新聞 | 私の見た正本堂 | 芦原義信 | ・・・このような巨大で複雑な曲面構造の建築をつくるということは、その設計の上でも、工事施工の上でもきわめて高度の技術の必要とすることであり、これをなしとげられた設計者である横山公男氏の天賦の才能と並々ならぬ情熱と努力にまず第一に敬意を表したい。 | ||
1973-01 | 伊奈だより | 伊奈製陶 | 焼きもの賛歌 | 座談会 芦原義信 田辺三郎 大岩和雄 |
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1973-02 | 芸術新潮 | 新潮社 | 欅の机 | 芦原義信 | ||
1973-07 | 造園の空間と構成 | 誠文堂新光社 | すいせんのことば | 芦原義信 | ||
1973-07 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その一 むかしの本店 |
記事 | 今回は、いささか回顧趣味かも知れないが、古い本店の建物についてご紹介しよう。 いわば、本店の歴史である。すべて形あるものは亡びるとはいえ、建物は、それを作った人、そこに住んだ人の思い出の結晶である。あたらしい建物を作る前に、昔物語も悪いものでもあるまい。 |
第一勧業銀行本店 |
1973-08 | a+u | エー・アンド・ユー | 対談 広場をめぐって |
芦原義信 三沢浩 |
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1973-08 | 夕刊フジ | フジ新聞社 | 編集室から | 記事 | ソニービル | |
1973-08 | 週間現代 | 講談社 | 有名な建築家が設計したレディー・メードの住み心地 | 記事 | 野村不動産港南台住宅 | |
1973-10 | 住まいと庭 | 建築資料研究所 | 広がる生活空間 五つの庭のある家 |
芦原義信 | 野村不動産港南台住宅 | |
1973-10 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その二 アメリカの超高層ビル |
記事 | この本店ものがたりも回を重ねて四回目、みなさんの関心も号を追って、高まってゆくかのようです。さて、今回はいよいよみなさんのユメを実現してくださるかた、設計を担当していただく、芦原義信先生をご紹介させていただきます。村本副頭取、江口専務ともどもに、本店へのユメを語っていただきました。 本店建設準備室のご協力による特別座談会です。 |
第一勧業銀行本店 |
1973-10 | 近代の美術 19号 | 至文堂 | 現代の建築 | 編:浜口隆一 | 富士フィルム東京本社 ソニー・ビル 岩波書店営業部ビル 駒沢公園体育館・管制塔 |
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1973-12 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その三 皆さんのアイディアから |
記事 | 本店建設準備室では、去る五月に、全行員の皆さんから、新本店建設に関するご意見を出していただきました。 ほとんど全店から多数のアイデアが出されましたが、抽象的なものから、極めて具体的なものまで、内容が多彩なため、目下整理中の段階です。・・・ここでは、それ以前のなまのアイデアをいくつかご紹介させていただきます。 |
第一勧業銀行本店 |
1974 56歳 | ||||||
1974-00 | 1974年スポーケン国際博覧会 参加報告書 | 日本貿易振興会 | 専門委員 芦原義信 他16名 |
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1974-01 | 新建築 | 新建築社 | 新建築住宅設計競技1974応募規定 生きがいのある生活空間の創造をめざして |
芦原義信 | コンペ | |
1974-01 | 家づくり | 第一勧業ハウジングセンター | 「巨大」さの狭間で | 芦原義信 | 東京に生まれ、そこに育った私は、東京のような大都会がこの上もなく好きで、一生を大都会で過ごす覚悟であった。しかしながら、最近の大都会の変貌には、さすがに都会派の私もいささか基本方針を変えざるをえなくなってきた。 物事があまりにも巨大化して、人間の直接的把握、手応えというものを失って、すべてが記号化されていることからくる不安感である。 | |
1974-02 | ja | 新建築社 | ANNOUNCEMENT OF THE SHINKENCHIKU RESIDENTAL DESIGN COMPETITION 1974 ADVICE FROM THE JUDGE |
Yoshinobu Ashihara | コンペ | |
1974-02 | 徳島新聞 | 徳島新聞社 | 洋風では照明が大切 | |||
1974-02 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その4 本店設計者 芦原義信さんを囲んで |
芦原義信 | この本店ものがたりも回を重ねて四回目、みなさんの関心も号を追って、高まってゆくかのようです。さて、今回はいよいよみなさんのユメを実現してくださるかた、設計を担当していただく、芦原義信先生をご紹介させていただきます。 | 第一勧業銀行本店 |
1974-03 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 山形大会 建築空間の構成 |
芦原義信 | ||
1974-03 | ART AND ARCHITECTURE | (イランの雑誌) | JAPANESE WEDDING HALL | 記事 | 杉並区立杉並会館 | |
1974-04 | 山形県建築士会誌 | 山形県建築士会 | 建築の空間構成 | 芦原義信(東京大学教授) | ||
1974-05 | 新建築 | 新建築社 | 第1回日新工業建築設計競技 | 募集記事 | コンペ | |
1974-06 | 東大工学部ニュース | 空間領域における「内部」と「外部」 たとえば東大キャンパス | 芦原義信(建築) | |||
1974-07 | 新建築 | 新建築社 | 低層住宅へのアプローチ | 対談 芦原義信 内井昭蔵 |
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1974-08 | 正論 | フジサンケイグループ | Photo essay 芦原義信 | 記事 | ||
1974-09 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その5 プラザの楽しみ方が上手なアメリカ人 |
第一勧業銀行本店 | ||
1974-10 | S.D | 鹿島出版 | 対談 イタリア建築家ヴァッレの日常生活 |
芦原義信 芦原太郎 司会:編集者 |
編集---先生はヴァッレとはどういう出会いで・・・ 芦原義信---大阪の万博をやることになったときにイタリア政府がコンペをやりまして、二つ案が残ったんです、決定の際にぼくは忙がしくて行かれなくて、代わりに守屋君に行ってもらったんです。 |
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1974-10 | S.D | 鹿島出版 | 日本万国博イタリア館 | 記事 | これは1970年大阪の万国博覧会イタリア館のイタリア国内コンクールの優勝作となったプロジェクトで、現在の都市のイメージに対して、これに代わりうる構成と形態の研究という点で、これまで、私たちが何年もの間行なってきた実験のなかでも、基本的なモーメントとなったものである。 | 日本万国博・イタリア館 |
1974-10 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 大学で設計者教育と専門]技術者教育の分離は必要か | 芦原義信 | ||
1974-10 | 銀座ロータリー週報 | インスタント巡礼 | ||||
1974-11 | HEMISPHERE | インタビュー WALLS, POSTS AND BEAMS |
George Molnar | |||
1974-12 | 新建築 | 新建築社 | 「新建築住宅競技設計1974」の審査を終えて | |||
1975 57歳 | ||||||
1975-00 | 今日のディティール 3 | 日本万国博・オ−ストラリア館 | ||||
1975-00 | ヘーベリアン | 旭化成工業 | 門 | |||
1975-00 | 営繕研究会テキスト | 営繕協会 | 公共建築物と環境設計 | 芦原義信(東京大学教授) | ||
1975-01 | 新建築 | 新建築社 | 日新工業建築設計競技 審査講評 |
芦原義信 | コンペ | |
1975-01 | 建築と積算 | 経済調査会出版部 | 随筆 ささやかな三つの贅沢 |
芦原義信(建築家、東京大学・教授) | 私は建築家という職業のせいか、とても素適な家に住んでいるのではないかとよく訊ねられることがある。あにはからんや、先立つ資金もないこともあり、戦後、住宅金融公庫からの借入金で建てた15坪ほどのとまやを何回か改装したり増築したりしてそのまま住んでいる。 | サウナ 屋根 雑木林 |
1975-01 | こすもす | 東急不動産 | アッコの聞き歩き1 芦原義信氏を訪ねる 屋根のゆくえ |
安藤陽子 | 建物の外観を決めるのは、屋根と外壁の二つの要素だとされるが、とりわけ屋根は、その家の形を決めてしまう重要な要素であるようだ。私たちが家のたたずまいを美しいというとき、それは、建物によく調和した屋根の美しさであることが多い。 | サウナ 屋根 雑木林 |
1975-01 | 週間建設ニュース | 建設ジャーナル | 「現代建築再訪 銀座ソニービル」 | 銀座四丁目の交差点にあり、最も商業建築として成功した建物ということが出来るソニービルは、計画上の手法としてスキップフロアーやサンクガーデン等を使ったり、亦建物全体がショールームによって構成されているなど新しいアイデアがいかされている。 | ソニービル | |
1975-01 | 日刊建設工業新聞 | 日刊建設工業新聞社 | 外部空間の設計 | 書籍の紹介 | 著書「外部空間の設計」 | |
1975-01 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その6 働きやすい本店つくります |
インタビュー記事 大塚恵三 |
「本店ものがたりも回を追って第六回。今月は建物本体の設計者である芦原先生(昨年二月号で紹介)とご一緒に内部の設備を設計していただく建築設備設計研究所の犬塚恵三先生を渋谷の研究所におたずねして、お話をうかがいました。 | 第一勧業銀行本店 |
1975-02 | ja | 新建築社 | Urban,Low-rise,Group Dwellings JUDGES'COMMENT |
Yoshinobu Ashihara | ||
1975-02-15 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 屋根裏のミニ書斎 | 記事 | 建築家の芦原義信東大教授は、一日の仕事を終えて帰宅すると、屋根裏にあるわずか二畳大のミニミニ書斎にこもって本を読むのが楽しみだ。東東都渋谷区にある芦原さんの家は、約五十平方メートルの平屋建てだったが、ゆるやかだった屋根の勾配を四十五度の急こう配になおして、その屋根裏に寝室を増設、このときの“副産物”としてこのかわいい書斎が生まれた。 | 書斎 |
1975-04 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | (TV番組表) | |||
1975-04 | 工学部ニュース | アブダビ紀行 | 芦原義信(建築) | |||
1975-05 | 新建築 | 新建築社 | 資生堂・ザギンザ 設計メモ |
井上一 | 資生堂 ザ・ギンザ | |
1975-05 | 新建築 | アイ・ビー・エム大阪ビル | 田向弘毅 | アイ・ビー・エム大阪ビル | ||
1975-05 | TOYS MAGAZINE | エポック社のデルタックス 建築家芦原義信先生の推せんのことばもいただきました |
芦原義信(建築家東大教授) | 小さい頃から、ものを組み立てて家のようなものをつくるのが大好きであった。このデルタックスのような素晴らしい構成玩具が昔からあって、私の少年時代の創遣性を涵養できたなら、もっと立派な建築家になれたことと残念である。 | ||
1975-05 | 商店建築 | 商店建築社 | (建築紹介記事) 資生堂ザ・ギンザ 資生堂化粧品店共同ビル |
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1975-05 | A+U | アブダビのコンペ審査 | ||||
1975-05 | 店舗デザイン | 店舗デザイン | 資生堂・ザギンザ | 資生堂 | ||
1975-05 | JAPAN INTERIOR DESIGN | インテリア出版 | 資生堂・ザギンザ | |||
1975-06-05 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 小さな空間の価値 反響があったミニ書斎 |
記事 | 二月の家庭面で、せまいスペースを有効に使づた建築家、芦原義信東大教授の「屋根裏のミニ書斎」を紹介したところ、さまざまな反響があった。ミニ書斎の発想に共感するものがほとんどだったが、中には「大学教授ともあろう入が、窮屈でかわいそう」という同情論も――、 | 書斎 |
1975-07 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その7 地震・台風どんとこい |
インタビュー記事 織本匠 |
第一勧業銀行本店 | |
1975-07 | アルヴァ・アアルト | 美術出版社 | アルヴァ・アアルトについて | 芦原義信 | ||
1975-08 | ja | 新建築社 | (建築紹介記事) THE GINZA SHISEIDO BOUTIQUE |
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1975-08 | 病院 | 医学書院 | (建築紹介記事) みなとと病院 横浜市立港湾病院 |
横浜市立港湾病院 | ||
1975-11 | 第2回 日新工業建築設計競技作品集 課題:水と関わり合いを持つ身近な空間 |
審査講評 | 芦原義信(審査委員長 東京大学教授) | |||
1975-11 | ヤングレディー | 続 三笠宮寛仁親王のお妃候補 財界名門令嬢編 関根三枝子 |
記事 インタビュー 芦原義信教授 |
三枝子さんは今年の春、聖心女子大国文科を卒業、現在は東大工学部建築学科の芦原義信教授の研究室で秘書として勤務している。 「とにかくつつましやかないいお嬢さんで、彼女の家は名門で正力松太郎さんのお孫さんにあたると聞いておどろいたんですが彼女は一言もそんなことはいわない人なんですよ。 |
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1975-11 | P&A | 三菱レイヨン | 世界の都市をめぐって | 芦原義信(芦原建築設計研究所所長 東京大学教授) | 石油ショック以来、度々名前のでてくるアラブ諸国とは、一体、どんな国々なのであろうか、一度訪ねてみたいと思っていた折も折、アブ・ダビ政府からアラブはオリピック用のスポーツ・シティーの懸賞設計の審査のため米訪しないかという手紙が舞いこんだ。 | |
1975-11 | IN SITE | INTERNATIONL INSTITUTE OF SITE PLANNING | BOOK REVIEW | 記事 | Exterior Design in Architecture 外部空間の設計 |
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1975-11 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その8 ”新しい街づくり”への参加 |
インタビュー記事 守屋秀夫 |
第一勧業銀行本店 | |
1975-12 | しにあらいふ | 年金保養協会 | 座談会 三世代の交流をめざして |
芦原義信(東京大学教授 建築家) 吉武輝子(評論家) 須藤信子(日本老人福祉財団) |
芦原 私もついこの間まで非常に若いつもりでいたんですけど、はっと気が付いてみると、光陰矢の如しというか、もうそろそろ昔でいう還暦ですね。今は大学にいる関係で若い学生諸君と始終つき合っておりますので、young at heart というつもりでおりますけれども、若い人達とやはり色んな考え方の点でわれわれと違うということも・・・ | |
1976 58歳 | ||||||
1976-00 | Der offene Kamin | Fritz R.Barran | サウナ | |||
1976-00 | UAE | 日本アラブ首長国連邦協会 | UAEの「スポーツシティー」と「国際会議場都市」 | 記事 | ・・・この設計審査も芦原東大教授が審査委員長として審査にあたり、日本からの5点を含め、38点の作品が10数カ国から応募された。 | |
1976-00 | Der offene Kamin | Julius Hoffmann | 日本郵船 | |||
1976-00 | KINOENE SIGN DISPLAY | 甲子看板工業所 | 芦原義信(建築家 東大教授) | サイン | ||
1976-00 | ミセス愛蔵版 | インテリア・デザインの秘訣 | 芦原義信 | |||
1976-01 | 第2回 日新工業建築設計競技作品集 | 日新工業 | 審査講評 | 芦原義信(審査委員長) | コンペ | |
1976-01 | 新建築 | 新建築社 | 第2回 日新工業建築設計競技入選発表 | 記事 | コンペ | |
1976-02 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 久しぶりに我が家に | 芦原義信 | ||
1976-03 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店ものがたり その9 アメリカの銀行の防犯対策あれこれ |
記事 | 第一勧業銀行本店 | |
1976-04 | セノー | 社長対談 海外進出大いに期待します |
お相手:芦原義信(東京大学工学部教授) | |||
1976-04 | 日経アーキテクチュア | 日経マグロウヒル社 | 建築の明日に向けて”原点”を探る | 芦原義信(東京大学工学部建築学科教授) | ||
1976-06 | 壮快 | 講談社 | 住まいのグッドアイディア集 屋根裏のミニ書斎 |
芦原義信(東京大学教授) | わが家の屋根裏には一坪のミニ書斎がある。瞑想の場所として、また明日の活動源を貯えるための場所として、屋根裏を書斎に改造したのが七年前。日本の従来の住宅は、日本人の個性の喪失や付和雷同性に通じると思っている。 | 書斎 |
1976-06 | 日経アーキテクチュア | 日経マグロウヒル社 | 私の視点 北欧の風土にうまれた”巨匠”の死 |
芦原義信 | ||
1976-06 | ソニービルニュース | ソニー企業 | 銀座この10年 | 記事 | ソニービル | |
1976-08-23 | 日経アーキテクチャー | 日経マグロウヒル社 | 「有名建築その後 ソニービル 日本最初のショールームビル10年の足跡」 | これほど多くの人々に愛され親しまれ、また大事にされている作品は他にないではないか――。銀座5丁目、数寄屋橋交差点角にソニービルがオープンしたのは10年前。日本最初のショールームビルとして採算を度外視し、当時衰退を噂されていた銀座に人を呼びこむという狙いは完全に成功しているようだ。 | ソニービル | |
1976-09 | 公共建築 | 営繕協会 | 国立歴史民族博物館 | 守屋秀雄(芦原建築設計研究所) | 国立歴史民俗博物館 | |
1976-09 | ミセス | 文化出版局 | ||||
1976-10 | 建築 | 山崎邸 | ||||
1976-10 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 本店だより グラビア 新本店いよいよ着工へ |
長い間準備を進めてきた新本店建設は、プランの詳細が固まり、いよいよ着工の運びとなりました。そこで今回の本店ものがたりは、都内の支店からH男さんとY子さんのお二人に本店建設準備室を訪ねてもらい、準備室にいろいろ聞いていただきました。 | 第一勧業銀行本店 | |
1976-11 | friend | History and Customs Museum to be Built | 記事 | 国立歴史民俗博物館 | ||
1976-11 | 国立歴史民族博物館 要覧’86 | 文化庁 | 国立歴史民俗博物館 | |||
1976-12 | イナレポート | 伊奈製陶 | チステルニーノ内的秩序の街 | 芦原義信(・建築家・東大教授) | ||
1976-12 | SD | 鹿島出版 | トンネル効果:武蔵野美術大学鷹ノ台校舎・アトリエ棟 | 記事 | I アプローチ・システム 設計者の説明によると、各アトリエ教室を構成単位として群構成が追及されたとき、構成のきめ手は人間の行動であり、そこでアプローチ・システムを重要な要件として検討したという。実施されたアプローチ・システムには三つの建築空間が対応している。 |
武蔵野美術大学 |
1976-12 | SD | 鹿島出版 | イタリアの石造建築 <イタリア文化会館講演会より> |
芦原義信(東京大学教授・建築家) | きのうまでイタリアにおりました。そもそもは、イタリアの大理石を見るのが目的でしたが、うまい具合にヴェローナ、ヴィチェンツァ、ロ一マの街を歩きまわって、バロックやマニエリスムの建築なども見ることができました。 | |
1977 59歳 | ||||||
1977-03 | 公共建築 | 営繕協会 | 緑と建築 領域的にみた外部空間 |
芦原義信(東京大学教授) | ||
1977-03 | 室内 | 工作社 | 研究 男の部屋 屋根裏部屋の躙口 |
記事 | 階段をあがると廊下の右手に茶室の躙口くらいの扉がある。その扉の奥が芦原先生の小さな書斎である。二畳ほどの広さ、壁面一杯の書棚、斜めになった天井、小さな窓からのぞく空。すべてなつかしい芦原先生の世界である。狭苦しいのと小さいのとは違うとおっしゃる。 | 書斎 |
1977-04 | SD | 鹿島出版会 | 座談会 三井物産ビルの空間構成をめぐって |
芦原義信 木下正夫 林昌二 小倉善明 |
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1977-07 | 日経アーキテクチュア | 日経マグロウヒル社 | 日本電信電話公社建築局 人の使い方が適正 |
芦原義信(東京大学教授) | ||
1977-12 | カレンダー 丹下健三・芦原義信・谷口吉郎・前川國男の建築にみるやきもの |
志野陶石 | ソニービル 杉並区立教育会館 駒沢公園体育館・管制塔 |
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1977-12 | TC TODA CONSTRUCTION |
戸田建設 | 建築と人間の関係 | 芦原義信(東京大学教授) | ||
1977-Automne | Bon Voyage | AIR FRANCE | エールフランスと私 | アンケート | パリ−モスクワ−東京間をよく利用するが、食事が中々美味い。特にヤキトリがいい。スチワーデスもよい。 | |
1977-冬 | アジアフォーラム | アジア経済人クラブ | 人間的魅力のある卒業生 | 芦原義信 | ||
1978 60歳 | ||||||
1978-03-25 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 「新銀座八丁 土と金 魅力薄れた?三角形の片すみ」 | 記事 | 銀座の春はヘソニービルからはじまる。数寄屋橋交差点の、三十平方メートルの空間に、今年も三月上旬、外房から菜の花三万本が運び込まれた。41年4月、この小さな広場がつくられて以来12年間かわらぬ行事の一つだ。 | ソニービル |
1978-03 | 国立歴史民俗博物館 1978 |
文化庁 | 国立歴史民俗博物館 | |||
1978-06 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店建設!! 未来への槌音 | 第一勧業銀行本店 | ||
1978-07 | 菓子屋のざら言 | 府中一中・成城・東大 | 対談 黒田光朝 芦原義信(建築家) |
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1978-07 | 都市・住宅 | 鹿島出版会 | 特集 歩行者空間の生成 | 記事 | 建築とロケーションの持つ関係は深い。日本の代表的繁華街である銀座の目抜き通りが交差する数寄屋橋交差点は、地下鉄、国鉄の出口があるところで、最も歩行者交通量の多いところである。ロケーションのもつ特性を、交差点部分に小さなプラザを作ることによって解決したこのビルは、都心空間の歩行者空間の少なさと、交差点の持つ歩行者の動きの活性をみごとなまでに最小限のオープンスペースで効果的にやってのけた商業ビルである。 | ソニービル |
1978-10 | 諸君 | 文芸春秋社 | 井上光貞 | 記事 | 国立歴史民俗博物館 | |
1978-10 | 都市計画と用途地域制 | 西田書房 | 著者 堀内亨一 推薦文 芦原義信 |
著者堀内亨一さんは私の敬愛する先輩であると同時に、多年にわたって東京の都市計画の実際の責任者として第一線で活躍されてきた人である。 | ||
1978-11 | 文化庁事始 | 東京書房 | 国立歴史民俗博物館 | 安達健二 | 国立歴史民俗博物館 | |
1978-12 | 月刊 商業施設 | 美しく・新しいまちずくりの提唱 | 芦原義信 | |||
1978-12 | 遠藤正介 | 遠藤正介氏追悼事業委員会 | 追悼I 遠藤正介さんの思い出 |
芦原義信(東京大学教授 建築家) | ||
1979 61歳 東京大学退官 街並みの美学出版 | ||||||
1979-00 | KINOENE SIGN DISPLAY | 甲子看板工業所 | 芦原義信 | |||
1979-01 | 文芸春秋 | 文芸春秋社 | 東京六大学教授リーグ戦 ちょっといい話 学会余滴 |
芦原義信 | ・・・先生は私についてよく覚えていることがあると云われた。それは私が大学に入学したときの自己紹介である「松沢病院ではアシハラ将軍、宝塚では葦原邦子、ここにおりますのは新人生のあしはらであります。とにかくこの名前の人はきっと何かやりますからご期待下さい」と君は云ったよ。 | |
1979-02 | 岩波の新書 2 | 著書「街並みの美学」 | ||||
1979-03 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 週間図書館 世界の例による多角的な住宅考 芦原義信『町並みの美学』 |
記事 <知> |
・・・いま、新しい住宅づくり、街づくりへの転機を迎えているときに、これからの街づくり、家づくりを考える上で恰好の手引きになる本があらわれた。芦原義信氏の『町並みの美学』がそれである。・・・ | 著書「街並みの美学」 |
1979-04 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店だより | 第一勧業銀行本店 | ||
1979-04 | 新建築 | 新建築社 | 池辺君の霊に捧ぐ | 芦原義信 | 池辺陽君の霊前に謹んでお別れの言葉を捧げます。2月9日の晩から武基雄氏と大江宏氏と私との3人は長岡温泉に泊って久しぶりに建築界の昔話にふけっていた。翌10日は朝から同市の文化センターのコンペのために、市役所で一生懸命に図面を見ていた。そこへ池辺君の計報が伝えられたとき、3人の審査員は一瞬茫然とした。 | |
1979-04 | 建築文化 | 彰国社 | 芦原義信東大教授の最終講義 | 亀掛川淑郎 | 要スキャニング | |
1979-05 | ロータリーの友 | ロータリーの友編集事務所 | 読書 「町並みの美学」を読んで |
田村恭一 | ||
1979-05 | 世界 | 岩波書店 | 都市を読む | 前田愛 | ||
1979-06 | 自然 | 中央公論社 | BOOK STAND 街並みの美学 |
布野修司 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-06 | 商店建築 | 商店建築社 | 書評 『街並みの美学』 人間的な街のあり方を追求する本 |
佐々木基一 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-06 | 調査季報 | 横浜市都市科学研究室 | 新書紹介 街並みの美学 |
小松崎隆(都市整備局開発課) | 著書「街並みの美学」 | |
1979-06 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店だより その二 | 第一勧業銀行本店 | ||
1979-07 | 建築文化 | 彰国社 | 夜の風景について 建築家の書棚 |
栗田勇 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-07 | 日経アーキテクチュア | 日経マヅロウヒル社 | 掲示板 新刊 「街並の美学」 |
記事 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-07 | 協会報 | 大阪銀行協会 | 「町並みの美学」と銀行の看板 | 後藤寛(大阪銀行協会理事 第一勧業銀行常務取締役大阪支店長) | ||
1979-07 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 記事 週間図書館 書評同人 上半期座談会 「街並みの美学」 |
記事 | 都市工学の専門化が書いたものだが、和辻哲郎以来の成果を使って、社会と都市と人間の成り立ちなどを論じている。・・・・・・最近、都市工学者の書いたものの中では白眉。 | 著書「街並みの美学」 |
1979-07 | 選択 三万人のための情報誌 |
びっぷ出版 | 「街並みの美学」の時代がやってきた | 粕谷一希 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-08 | 新建築 | 新建築社 | 書評 『街並みの美学』 街並みのフィールドノート |
加藤秀俊 | 著書「街並みの美学」 | |
1979-08 | 建設秋田 | 芦原氏の講演 楽しい美しい 街並みを 建築設計の権威者 |
記事 | |||
1979-08 | 週間ポスト | 記事 拝啓鈴木都知事殿 若者に評判の『街並みの改造案』で東京はこんなに住みよくなる |
記事 | 著書「街並みの美学」 | ||
1979-08 | 都市住宅 | (書籍紹介) 街並みの美学 実感と解読により浮かびあがった街並みの姿そして その実践の書 |
森俊偉 | 著書「街並みの美学」 | ||
1979-08 | 日経アーキテクチュア | 日経マグロウヒル社 | コルヴィジェと違った型の建築家は10年で必ず出る。 自称”7年目の浮気者”芦原義信氏の建築遍歴 |
芦原義信 聞き手:蜂谷真佐夫編集長 |
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1979-08 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店だより その三 | 第一勧業銀行本店 | ||
1979-10 | 週間建設ニュース | 建設ジャーナル | 武蔵野美術大学 | 大沢匠(建築家) | 増築された美術資料館を雑誌で見ていたので、それを含めてこの機会にキャンパス全体を見ようと思い立って中央線の快速に乗った。国分寺から西武線に乗り換えて二つ目の鷹の台で降りて、商店街を抜けると、道路際に小さな栗の木の林が続いている。 | 武蔵野美術大学 |
1979-10 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店だより その四 | 第一勧業銀行本店 | ||
1979-10 | JA 10月号 | 新建築社 | PEGASUS HOUSE | Yasumitsu Matsunaga | ||
1979-11 | MCM 週間月報 | 編:建設省広報室 | 提言 公共建築に望む |
芦原義信(武蔵野美術大学教授) | ||
1979-11 | 週間 アサヒゴルフ | 細川隆元の対談ホールマッチ 「ゴルフは狩猟本能のあらわれかもしれませんね」 |
ゲスト:芦原義信(建築設計家・元東大教授) | |||
1979-11 | 原色 現代日本の美術 17 建築 | 小学館 | 駒沢体育館・管制塔 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1979-11 | 自動車とその世界 | トヨタ自動車販売 | 街角の美学 | 長谷川智恵子(日動画廊専務) | 著書「街並みの美学」 | |
1979-11 | PHOTO SAKURA | 佐倉市 | 記事 | 国立歴史民俗博物館 | ||
1979-12 | 臨時増刊 新建築 | 新建築社 | 随想 私の外部デザイン・環境論 | 芦原義信 | 私は今、ニューヨークのセントラル・バークを見下ろすホテルの1室でこの原稿を書いている、1960年から61年にかけて、このホテルのすぐそばにあるタイム・ライフ・ビルの42階の1室で、「外部空問の構成」という学位論文を書いていた。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1979-12 | はあと | 第一勧業銀行 業務第1部広報室 | 新本店だより その五 | 第一勧業銀行本店 | ||
1979-SUMMER | approach | 竹中工務店 | 街並みの美学 日本のタウンスケープへの提案 |
芦原義信 | 著書「街並みの美学」 | |