掲載年月 | 掲載誌 | 発行 | タイトル | 執筆者 | 書き出し・抜粋文章 | 備 考 |
1960 42歳 | ||||||
1960 | Kultermann New Japanese Architecture | 中央公論ビル | ||||
1960 | Zodiac3 | 中央公論ビル | ||||
1960-00 | −− | 座談会・高速道路計画を語る | 芦原義信 大塚全一 川上秀光 秀島乾 藤島茂 宮内嘉久 |
・・・・・・芦原 わたくしは道路のことは素人ですが、道路を作っているのを見るのは希望や夢があって楽しいものですね。ただ、いまのお話を伺いまして、土木的な都市計画の考え方と、建築的な都市計画の間にいくぶんか考え方の違いがあるんじゃないかと思ったわけです。 | ||
1960-00 | Kultermann New Japanese Architecture | 中曽根邸 | ||||
1960-00 | 世界デザイン会議 | 今日の問題環境 | 芦原義信 | 日本の都市は、無関係にばらまかれた大小様々の図形群のように見える。この図形は一つの環境をつくりだす焦点としては極めて小さく弱くあった。そして、この図形の内部には日本の伝統的美が整然と保持されているにも拘らず、他の図形とのアソシエーションは皆無で、その周囲は混乱と無秩序の状態にある。 | ||
1960-00 | Neues Bauen in Japan | 岩崎学園横浜レデイスセンター 松浜クラブハウス 中央公論ビル |
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1960-00 | SPACE MODULATOR | 日本板硝子 | ホテル日航の設計 | 芦原義信 | 日本航空ホテル | |
1960-01 | 建築文化 | 彰国社 | 座談会 設備時代来る | 芦原義信 伊藤喜三郎 井上宇市 菊竹清訓 玉置純治郎 藤井正一 小木曽定彰 |
彼ほど権威ぎらいな人は少ない。それは海外に学んで民主化したというようなものではない。むしろ生得の、きっすいの東京人であることに由来するのではないか。 | |
1960-02 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | ある先輩のいわく「お金はほしがればほしがるほどいっこうにやってこない。年のころ四十から五十の間にお金に関する転機がやってこなければおしまいである。そんな時にはほしがらなくても急に楽になる」と | |||
1960-02-21 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 坂倉さんの所で働いていたころ | 芦原義信 | はじめて坂倉準三氏の名前を知ったのは、アルフレッド・ロート著のニュー・アーキテクチャーに世界の名建築家に伍して同氏設計のパリのパビリオンがでていたことであった。 | |
1960-03 | 近代建築 | 近代建築社 | 建築月評 ホテル日航 | 神代雄一郎 | ・・・芦原義信は中央公論ビルで人間的あたたかきのあるデザインをした。今度はもつとコマーシャルな要求の強いホテルでどんな仕事をするか注目きれたが一般には目下流行のチャコール・グレーの建築として新聞や週刊誌にまでとりあげられ評判である。 | 日本航空ホテル |
1960-03 | 木工界 | 工作社 | 建築家・人と作品3 東京の人・芦原義信 |
川添登 | ・・・芦原の設計で、最近竣工した目航ホテルを訪ずれてみよう。まず、チャコール・グレイのホウロウびき鉄板の外壁が、人の目をそばだてる。いかにも都会的なセンスだが、軽薄でない。むしろ、なかなかダイナミックである。都会的で、ダイナミック。これが簡単なようで、日本人には、なかなかできない芸当なのである。 | 日本航空ホテル |
1960-03 | 建築界 | 理工図書 | ホテル日航 | 記事 | 日本航空ホテル | |
1960-03 | 国際建築 | 美術出版社 | ホテル日航・東京銀座 | 芦原 | 日本航空ホテル | |
1960-03 | 建築文化 | 彰国社 | ホテル日航の芸術家達 | 神代雄一郎 | ホテルはやはり商売である。篠田桃紅・伊原通夫・流政之という。有名な芸術家たちがホテル日航で仕事をしているが、旅館やホテルで有名な芸術家が壁画や彫刻をつくった例はいくらもある。そうしたものの、これも一つだと考えれば、そんな中では非常に気持のいいものだとはいえる。 | 日本航空ホテル |
1960-03 | 建築文化 | 彰国社 | ホテル日航の設計 | 芦原義信 | 日本航空ホテル | |
1960-03 | 建築文化 | 彰国社 | ホテル日航 構造について | 織本匠 | 日本航空ホテル | |
1960-03 | 建築文化 | 彰国社 | 設備について | 大塚恵三 | 日本航空ホテル | |
1960-03 | 今日の建築 | 玄々社 | ホテル日航 | 日本航空ホテル | ||
1960-05 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 「日本建築学会賞」昭和34年度の表彰業績に対する推薦理由 | 芦原君の作品は意匠、構造、設備に優れた一貫した近代性を特っているが、特に中央公論ビルはその中でも優れた作品と云え様。限られた都心の敷地の難しい条件の中で、その条件を最大限に活用しスペースの無駄を省くと同時に単調になり勝ちな office buildingに適当な変化と快適な雰囲気を創り出すことに成功している。 | 中央公論ビル | |
1960-05 | 文芸春秋 | 文芸春秋社 | 建築家ベストテン 日本の十人 | 記事 | 新しさと古さの奇妙に混交する建築の世界にあって果して誰が日本の空間を形造るエキスパートであるか、蜿蜓四時間にわたってなされた選考の経過を示す。 | 日本航空ホテル |
1960-05-27 | 「日本建築学会賞」昭和34年度の表彰業績に対する選考理由 | 2 作品について 中央公論ビル |
日本建築学会 | 芦原君の作品は意匠、構造、設備に優れた一貫した近代性を特っているが、特に中央公論ビルはその中でも優れた作品と云え様。限られた都心の敷地の難しい条件の中で、その条件を最大限に活用しスペースの無駄を省くと同時に単調になり勝ちな office buildingに適当な変化と快適な雰囲気を創り出すことに成功している。 |
中央公論ビル | |
1960-06 | 建築界 | 理工図書 | −ホテルマンに聞く− 今日のホテル |
伊藤喜三郎 金谷鮮治 片岡豊 古田直弥 桜井省吾 芦原義信 船橋明 |
伊藤:本日は御多忙のところ有がとうございます。本日の座談会は日本で代表的なホテルマンの方々のご出席を得まして定めし大収穫があると大いに期待している次第です。 | 日本航空ホテル |
1960-06 | 木工界 | 工作社 | 人生の目的 | 芦原義信 | このごろつくづく思うのは、一体なんのために生きているのであろうか、ということである。朝早くから、夜遅くまで実によく働く。ただなんのためにということでなく、次から次から生じてくる用件や仕事を打ちはらい、おしのけるけれど、あらたにふえる仕事の量のほうが・・・、 | |
1960-10 | パンフレット 横浜市民病院 |
横浜市 | 横浜市立市民病院 | |||
1960-10 | ar | HOTELS | 記事 | 日本航空ホテル | ||
1960-11 | 建築 | 槇書店 | 横浜市立市民病院 | 記事 | 横浜市立市民病院 | |
1960-11 | 建築文化 | 彰国社 | 横浜市立市民病院 | 記事 | 横浜市立市民病院 | |
1960-12 | 近代建築 | 近代建築社 | 芦原義信建築設計研究所・2作品 N氏邸 |
記事 | 中曽根邸 | |
1960-12 | 近代建築 | 近代建築社 | 芦原義信建築設計研究所・2作品 | 横浜市立市民病院 | ||
1960-12 | 近代建築 | 近代建築社 | 今日の問題・環境 世界デザイン会議に於ける口演 |
芦原義信 | ||
1960-12 | 近代建築 | 近代建築社 | 芦原さんのプロフィル | 川添登 | 私は次のように予言することをはばからない。十年後日本の「建築」をおさえるのは依然として丹下健三であるかも知れない。しかし「建築界」をおさえるのはおそらく芦原義信であろう。 | |
1960-12 | 建築文化 | 彰国社 | スキップフロアーの家 N邸 | 記事 | 中曽根邸 | |
1960-12 | 建築文化 | 彰国社 | わたくしの住宅設計観 | (芦原義信) | 中曽根邸 | |
1961 43歳 | ||||||
1961-00 | ALBERGHI Motel Ristoranti |
日光ユースホステル | ||||
1961-06 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 建築の外部 | 芦原義信(日本建築家協会会員 芦原義信建築設計研究所) | ひさしぶりにヨーロッパを旅行して最も興駅深く感じたのはイタリアの中世の都市であった。山の上に城壁をめぐらしてひとかたまりになった都市は、ちょうど一軒の大きな建築のようで、町の中の道路は建築の廊下のようであり、その中心部にある美しい舗装をした広場(ピアツア〉はわれわれの居閤のようである。 | |
1961-07 | 観光設備 | 座談会 旅館建築の問題点 |
重松敦雄 田中於莵丸 芦原義信 吉江憲吉 林幸二郎 鈴木藤吉 浜田彰 二階堂辰彦 滝浦潤 |
芦原:遅刻して申しわけございません。実はホテルの設計をやってみたんですけれども、旅館の設計はやったことがないんで、私もユーザー的な立場でいつも考えるんです。地方に行った場合に、鉄筋コンクリートの旅館に泊るのはいかにも味けがない。なるべく避けるようにしているものですから。(笑) | ||
1961-08 | 東京都オリンピック施設建設事務所事業概要 | 東京都オリンピック準備局 | ||||
1961-08-26 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 女の我慢 | 芦原義信(建築家) | 我が国伝統の木造住宅というものはまことにありがたいもので、高湿多湿の気候風土にはまさにぴったり、小さい庭に打水をしたり、鈴虫かごや、すだれに猛暑を我慢しているうちに、美しい秋がおとずれてくる。この木造住宅というものは、火事や泥棒にはきわめて弱く、留守番をおかないで家ぐるみ出かけることはなかなか困難である。 | |
1961-09/10 | ARCHITECTURAL ASSOCIATION JOURNAL | ANNUAL EXHIBITION OF SCHOOLWORK 1956-1961 | ||||
1961-09-11 | 東京新聞 | 東京新聞社 | 現代の建築 設計者の意図 ホテル日航 |
芦原義信 | 時計台のついた木造2階建の洋館のあったあの狭い土地に地上二階、地下三階の近代設備のあるホテルができあがったことは、我々設計にたずさわった者にとってひとしお感慨深いものがある。 | 日本航空ホテル |
1961-10 | 美術手帳 | 美術出版社 | 群としての建築 | 対談 芦原義信 浜口隆一 |
浜口:芦原さんは「群の建築」といったことについて、早くからいっておられた一人だとおもいますが、その意味とか、そうしたことを問題にされるようになった動機とかを伺いたいとおもいます。 芦原:これまで都市については、土木計画・道路計画が先行して、建築家はそのわくのなかでやってきたが、それではやっぱりうまくいかないということが判明してきた。 |
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1961-10/11 | L'Architecture d' Aujoure'hui | NOTES SUR L'ARCHITECTURE AU JAPON | PAR YOSHINOBU ASHIHARA | |||
1961-10/11 | L'Architecture d' Aujoure'hui | YOSHINOBU ASHIHARA HOSPITAL CIVIQUE DE YOKOHAMA |
横浜市立市民病院 | |||
1961-11 | 建設月評 | 建設広報協議会協議会 | 素人都市計画 | 芦原義信 | 戦後、民間の設計事務所をはじめて数年になるが、与えられた敷地に一軒の建築を設計して建てているうちに、一体自分達は実際に都市計画に貢献しているのか、邪魔をしているのか、極めて不安になって来た。 | |
1961-11 | 中央公論 | 中央公論社 | 人間派都市計画 | 芦原義信(建築家) | ここに人間派都市計画などという、いかにも非人間派都市計画なるものが存在するがごとくきこえるかもしれないが、現実に最近の東京の混乱などをみると、誰がなんと弁解しようが非人間派都市計画のなせるわざわいの累積であるとひがみたくなる。 | |
1961-12 | 建築 | 青銅社 | マスコミレーダー 芦原義信氏のコンパクト都市計画 |
記事 | acho:これはかなり長文の論文で,こうした形で引用するのは多少無理であったが,今まで提案されたものとは違った面白さがあるのでここに引いた。 |
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1961-12 | 建築文化 | 彰国社 | 第6回UIAロンドン大会 | 芦原義信 | 本年6月末より7月上旬にかけてUIAの第6回大会が世界中の建築家を集めてロンドンで開催された。王室イギリス建築家協会(RIBA)の至れりつくせりの準備によっておそらくこの大会の空前の建築家会議であったのではないかと思う。 | |
1961-summer | MODERN LIVING | 海外旅行でみた住まいの移り変り | 芦原義信 | |||
1961-秋季 | 公共建築 | 営繕協会 | 外遊放談 建築の内部と外部 |
インタビュー 芦原義信 |
今度の外国行きの主たる目的は、建築の内部の問題より、建築の外にいろいろ問題があるんじゃないかという点に興味を感じまして、それを研究できたらと思って出かけたわけなのです。そこでまず第一に感じたことは、目本の建築の設計技術といい、施工技術といい、材料といい、その程度の高いことで・・・ | |
1962 44歳 | ||||||
1962-01 | 近代建築 | 近代建築社 | 日本の建築論・日本の外部空間 二分した外部空間−−屋根と庇 |
神代雄一郎 | ・・・芦原義信の「人間派都市計画」(中央公論11月号)「群としての建築」(美術出版10月増刊)を読んだ。これらに述べられている論旨は 昭和36年度建築評論のベスト・ワンに値するものと思うが とくに「最近 建築や都市の内容や機能が複雑且つ専門化し、建築の内部秩序が建築の外部空間である道路とふれあうところに混乱と非人間化とが生まれはじめた。」・・・共鳴するところが多かった | 日光ユースホステル |
1962-01 | 建築文化 1月号 | 彰国社 | III/外部空間を創る技術 | 芦原義信 | ||
1962-01 | 新建築 | 新建築社 | ルポルタージュ:設計組織を探る 民間設計事務所-II 芦原義信事務所−−西洋的正統派 |
浜口隆一 | 芦原義信事務所---酉洋的正統型 所長の芦原義信(東大・昭17卒)が、ハーバード大学院およびマルセル・ブロイヤーのもとで勉強してきてから開いた設計事務所であるだけに、戦後派といいながら、西洋における建築事務所の在りかたを正統的に踏んでやってゆこうとする、はっきりした態度をもっている。 |
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1962-01 | 中央公論 | 中央公論社 | ニューヨークと東京を比べると | ネーザン・グレイザー 解説:芦原義信(建築家) 訳:芦原初子 |
世界の大都会のうちで、ロンドン、ニューヨーク、パリのように特に大きい都会とくらべて、建築美の点でもっともふるわないのは東京であろう。古いものといっては何一つとして残っていない東京で、ただ宮城のお濠と石垣だけが一つの証拠として、江戸が十九世紀以前にさかのぼる都であったことを示しているにすぎない。 | |
1962-01-09 | 東京新聞 | 東京新聞社 | 外国のアパート 概観は高級ホテル並み |
芦原義信 | ||
1962-02-26 | サンケイ新聞 | サンケイ新聞社 | 横顔 | 芦原義信 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1962-03-06 | 新建材新聞 | 外部空間の統一 | 記事 | |||
1962-04 | 新建築 | 新建築社 | 東京オリンピック競技場施設 駒沢公園中心部計画案 |
記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1962-04 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 読書 新しい都市計画 芦原義信著「外部空間の構成」 |
記事 | 著書「外部空間の構成」 | |
1962-05 | 近代建築 | 近代建築社 | 現代の記念性 | 神代雄一郎 | ||
1962-05 | 経済評論 | 日本評論新社 | 溢れる都市人口と都市計画 | 芦原義信(建築家) 柴田徳衛(都立大学助教授) 浜英彦(人口問題研究所所員) |
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1962-05/06 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | 都市造形の理論 | 書評 磯崎新(建築家) |
著書「外部空間の構成」 | |
1962-06 | 音楽芸術 | 現代イタリア芸術 イタリア建築の伝統と現代 |
芦原義信 川添登 |
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1962-06 | 近代建築 | 近代建築社 | 書評 芦原義信著「外部空間の構成」 |
中田亨 | 著書「外部空間の構成」 | |
1962-06 | 週間建設ニュース 40 | 建設ジャーナル | 対談 都市計画にヒューマンスケールを |
山口文象(RIA都市総合研究所) 川添登(建築評論家) |
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1962-06 | 週間建設ニュース 41 | 建設ジャーナル | 対談 建築家の姿勢 |
山口文象(RIA都市総合研究所) 川添登(建築評論家) |
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1962-06 | Bauen+Wohnen | Jugendhotel Nikko Japan | 記事 | 日光ユースホステル | ||
1962-06 | DBZ | Jugendherberge Nikko/Japan | 記事 | 日光ユースホステル | ||
1962-07 | スバル | 富士重工業 | 道路標識に思う | 守屋秀夫 | 最近ますます悪化してゆく都市自動車交通の混乱麻痺状態もさることながら、同時に混乱雑然化の道をたどる道蕗標識を見ているとつい腹立たしくなったりする。 | |
1962-07 | The Japan Architect | 新建築社 | New Theater for Tokyo Olympic Games 1964 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1962-07 | 学燈 | 都市に関する随想 | 芦原義信 | |||
1962-08 | 週間 建設ニュース | (株)建設ジャーナル | 対談 空間を実現する組織の形態 |
芦原義信(芦原義信建築研究所所長) 神代雄一郎(建築評論家) |
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1962-09 | インテリア | イタリア造形の創造性 | 芦原義信 | |||
1962-09 | 週間 建設ニュース | (株)建設ジャーナル | 対談 もっとも建築的な都市への貢献を |
芦原義信(芦原義信建築研究所所長) 神代雄一郎(建築評論家) |
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1962-09 | 建築文化 | 彰国社 | 地方都市のコア 八千代市厚生会館 | 記事 | 八代厚生会館 | |
1962-09 | 建築文化 | 彰国社 | 八千代市厚生会館設計の覚書 | 芦原義信 守屋秀夫 沢田隆夫 保坂陽一郎 |
八代厚生会館 | |
1962-09 | 新建築 | 彰国社 | 八千代市厚生会館 | 記事 | 八代厚生会館 | |
1962-09 | 新建築 | 彰国社 | 設計によせて | 芦原義信 | ・・・精度の高い音響的空間は構造空間とかならずしも一致させる必要はない。とくにオーディトリアムには側廊をとる必要から、構造の内側をそのまま内部の空間とすることは困難である。そのため、4m間隔の薄べったい柱により縦の線を強調し、外部空間へのリズムとし、横方向のつなぎとして、柱と梁との接合部に大きな傾斜のあるつなぎ梁をいれることにしてみた。 | 八代厚生会館 |
1962-10 | 建築 | 青銅社 | 外部空間--新しい都市像のための新しいエレメント | 芦原義信 ききて:川添登 |
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1962-10 | 建築 | 青銅社 | 八代市厚生会館をとりまくもの | M | 八代厚生会館 | |
1962-10 | 図書 | 岩波書店 | 新しい建築の問題 | 芦原義信 | ||
1962-10 | 芸術新潮 | 新潮社 | 風土に生きる地方建築 | 八代厚生会館 | ||
1962-11 | japan architect | 彰国社 | 設計によせての英文 | 芦原義信 | 八代厚生会館 | |
1962-11 | 経済評論 | 都市改造論の視角 | 芦原義信(建築家)談 | |||
1962-11 | 婦人之友 | 地方都市のセンター | 神代雄一郎 | 八代は熊本の南にある人口10万程の都市である。だから九州に著名な音楽家がきても、福岡でひきかえすか、福岡・熊本・鹿児島ととんでいってしまう。そこで八代に立派な音楽堂を建てて、ここに質の高い文化を吸引定着させ、市民の文化的欲求に答えようというのが、八代市厚生会館を創る目的だった。 | 八代厚生会館 | |
1962-11-13 | 同志社学生新聞 | 将来はビルも消耗品 次代の都市と建築の方向 |
芦原義信 | |||
1962-12 | 新建築 | 新建築社 | 座談会 超高層をいかにとらえるか |
芦原義信(建築家) 梅村魁(東大助教授) 中川中夫(大成建設技術部) 村松貞次郎(東大助教授) |
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1963 45歳 | ||||||
1963-00 | 材料と設計 | 座談会 超高層建築とカーテンウォール |
三浦忠雄(大成建設) 前岡幹夫(建設省住宅局) 成田春一(東京建築研究所) 芦原義信(芦原建築設計事務所) 井上宇市(早稲田大学) 小池音一(東京カーテンウウォール工業) |
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1963-00 | an architectural journey in Japan | JM Richards | 横浜市立市民病院 | |||
1963-01 | プラスタイルブック | 田島応用化工 | 空間をつくるもの | 沢田隆夫 保坂陽一郎 |
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1963-01 | プラスタイルブック | 田島応用化工 | 設計事務所訪問・第2回 芦原義信設計研究所 |
記事 | ||
1963-01 | 文芸春秋 | 文芸春秋社 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1963-01 | 週刊建設ニュース | 建設ジャーナル | 座談会 建築家協会の職能活動について |
中川軌太郎(レーモンド建築設計事務所代表) 山口文象(RIA建築総合研究所長) 福永満人(福永建築設計事務所長) |
前川さんの貴重な足跡 たとえば前川さんが岡山でしたか、あれは規定どうりの契約をしたんでしょう。あれが当たり前ですよ。前川さんががんばって、規定どうりにして、先方をなっとくさせた。 芦原さんがその後岡山の仕事をやったんですね。そのときに県から出された規定の書類を見てびっくりしたそうですな。・・・規約が非常にキチンとして、はっきりしているんですね。そういうのは初めてだというんです。 |
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1963-01 | 秀和NEWS | 秀和 | 新春テレビ座談会 完全住宅をつくりたい |
小林茂(秀和社長) フランソワーズ・モレシャン 芦原義信(建築設計家) 馬場アナウンサー(NET) |
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1963-01 | 秀和NEWS | 秀和 | 秀和青山レジデンス設計によせて | 芦原義信 | 秀和青山レジデンス | |
1963-02 | Architectural Design | 1994 Olympic Buildings 24,25 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1963-02-03 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | 今年の建築五人男 | 記事 | ||
1963-02-22 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 舶来品について | 芦原義信(建築家) | ||
1963-02 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 建設特報 近く設備業者発注 注目の川崎日航ホテル |
記事 | 日本航空ホテル | |
1963-03 | 新建築 | 新建築社 | 建築の性能評価II 中央公論ビル |
記事 | 中央公論ビル | |
1963-04 | ロータリーの友 | ロータリーの友編集事務所 | 明日の都市美を創る | 記事 | ここのご紹介するのは東京銀座RC芦原義信君の設計された、東京駒沢公園体育館(本年末竣工予定)と八千代市厚生会館(昨年7月竣工)である。東京五輪に使用される体育館は、古城の濠のような円環の中に建てられ、見事な局面と反りを持つ4枚の屋根(異型H.Pシェル)とそれを支える大きな梁は、我が国古代の建築物を思わせる。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1963-05 | Projekt | SPOTKANIA Z ARCHITEKTAMI JAPONSKIMI YOSZINOBU ASZIHARA |
記事 | 中央公論ビル 横浜市立市民病院 駒沢公園体育館・管制塔 |
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1963-05 | 東電クラブ | 東京電力 | オリンピックと電気 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1963-05 | 日本デザイン学生連合会報 | 芦原義信(建築家) | ||||
1963-06 | The Japan Architect | 新建築社 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1963-06 | 建築文化 | 彰国社 | オフィスビルとしての典型 中央公論ビルディング |
中村登一 芦原義信 |
今から10年前厨、ハーバード大学の大学院を卒業したとき、あの巨大なエネルギーのるつぼであるニューヨークにでたいと思った。そして、それほどコマーシャルでなく、しかも第一線事務所にはいって実際の設計にたずさわりたいと思った。幸い、マルセル・ブロイヤーの事務所に1年間働くことができたが、そこで覚えたことは、一言にしていうと、あたたかい人間的空問構成と、光と陰――対立と調和ということであったと思う。 | 中央公論ビル |
1963-06 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建設コラム 対立と調和 |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | 著書「対立と調和」 | |
1963-06 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建設コラム 建築の二つの方向 消耗する建築 |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | ||
1963-07 | 建築文化 | 彰国社 | 岡山県立児童会館 | 記事 芦原義信 |
御影石の山を背にしたこの傾斜のある敷地はわれわれ空問構成に関心のある者にとっては絶好のものである。床高をあれこれ変化させて、子供たちがここに生活しているとき、壁にもたれて話しあったり、手すりに手をついて星を眺めたり、階段に坐って写真をとったりできる、舗装のある外部空問をつくることにより、前述の県の構想にわれわれの構想をつけ加えたいと思った。 | 岡山県児童会館 |
1963-07 | 新建築 | 新建築社 | 外部空間をテーマとした岡山県立児童会館 | 芦原義信 古沢栄一 久田晃 |
芦原 それからこんどわれわれも感じたことなんですが、中庭は縁どりを御影石の本磨きのものを角に切ってそれを筋のように敷き並べ、その中にレンガを矢筈張りにしているわけなんですが、縁の材料の方が中の材料よりいいということが非常によかったんだなということを勉強したわけなんです。 | 岡山県児童会館 |
1963-06-10 | 週刊新潮 | 新潮社 | オリンピック競技場のミニチュアから | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1963-07 | 週間建設ニュース | (株)建設ジャーナル | 国立国際会館設計競技入選決まる | 記事 談 芦原義信 |
国立国際会館 [コンペ] | |
1963-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 建築創造のるつぼ 最終段階に残った12案の人々 |
浜口隆一 大谷幸男 芦原義信 大高正人 菊竹清訓 円堂政嘉 小林武夫 佐野幸夫 林昌二 槙文彦 内田長和 |
浜口:こんどの設計の主旨は? 芦原:結局われわれが考えたのは、1軒の建物としては少し規模が大きすぎるのじゃないか。だから何か一つシステムをつくって、それに必要なものをつけていく、という考え方がいいじゃないか、で出発しました。 |
国立国際会館 [コンペ] |
1963-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 岡山県立児童会館-外部空間の構成について | 芦原義信 | 建築における外部空問を構成するためにはその空間がある特定の個人によってのみ使われるのではなく、多数の人々によってコミュニティー的に使われることが望ましい。また、空間の技術としては、次の三要点について考慮する必要があると考えられる。 | 岡山県児童会館 |
1963-08 | 建築 | 青銅社 | 国立国際会館 [コンペ] | |||
1963-08 | 建築文化 | 彰国社 | 優秀作品 芦原義信他24名 | 設計要旨抜粋 | この会館の雄大な規模と複雑な機能から判断して、これを一棟の建物にまとめることはスケールとして無理なので、「分散方式」を採用してある。「分散方式」が一つの有機的な建築として機能するためには、これを結びつける「システム」を確立する必要がある。それにより、時代の移りゆく要求の変化や、各種の拡張計画に対応できて、・・・ | 国立国際会館 [コンペ] |
1963-08 | 国際建築 | 美術出版社 | 国立国際会館 [コンペ] | |||
1963-08 | 週間 建設ニュース | (株)建設ジャーナル | 二大コンペの周辺を語る 国立劇場・国立国際会館設計競技うらばなし |
座談会 田巻博通 二瓶壌二 立松久昌 脇田裕史 芦田恵袈雄 |
国立国際会館 [コンペ] | |
1963-08 | 週間 建設ニュース | 建設ジャーナル | 国立国際会館設計競技審査報告書 | 国立国際会館設計競技審査会 | 国立国際会館 [コンペ] | |
1963-08 | 新建築 | 新建築社 | 国立国際会館 [コンペ] | |||
1963-08 | 鉄骨建築 | 建築にも組立工の時代 | 芦原義信 | |||
1963-08-04 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | 国立国際会議場の設計 | 記事 | 国立国際会館 | |
1963-08-31 | 日刊建設工業新聞 | 日刊建設工業新聞社 | 人間模様 建築界に輝く星 |
記事 | ||
1963-08 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 建設特報 横浜シーサイドボウル 芦原で設計すすむ |
記事 | ||
1963-08 | 近代建築 | 岡山県児童会館 | ||||
1963-09 | d.b DEUTSCHE BAUZEITUNG |
Sporthalle in Tokyo | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1963-09 | 建築文化 | 彰国社 | 応募作品のできるまで | 芦原義信・保坂陽一郎・吉沢栄一・沢田隆夫・守屋秀夫・伊原新吉 | 1月1日 新年にあたり、この懸賞設計に応募する決意をかためる。事務所のあるビルの中に静かな別室をしつらえ、研究をはじめる。実際の設計に忙殺されてなかなか進まないが基本方針を考える。 2月26日 事務所としても初めてのコンペになるので、それについて、コンペの本質的な問題から討議が始められた。 |
国立国際会館 [コンペ] |
1963-09 | 新建築 | 新建築社 | 国立国際会館設計競技 優秀作品 芦原義信案 |
記事 | 序論:この国立国際会館の雄大な規模と複雑な機能から判断し、これを従来の建築のような1棟の建物にまとめることは、スケ一ルとして無理である。そこで本案では新しく「分散方式」を採用してある。分散方式がひとつの有機的な建築として機能するためには、これを結びけるシステム」を確立する必要がある。 | 国立国際会館 [コンペ] |
1963-09 | 新建築 | 新建築社 | 座談会 国際会館コンペを終わって |
審査員側・・伊藤滋 大原総一郎 前川国男 松田軍平 建設省側・・角田栄 入選者側・・大谷幸夫 沖種郎 芦原義信 大高正人 菊竹清訓 司会 浜口隆一 |
国立国際会館 [コンペ] | |
1963-09 | moebel interior design | Jugenherberge in Nikko/Japan | 記事 | 日光ユースホステル | ||
1963-10 | The Japan Architect | 新建築社 | 国立国際会館 [コンペ] | |||
1963-10 | The Japan Architect | 新建築社 | 岡山県児童会館 | |||
1963-10 | 建築 | 青銅社 | 中央公論ビル 1956 | 中央公論ビル | ||
1963-10 | 中央公論 | 中央公論社 | 超高層ビルと火災 | 葦原義信(建築家) | ||
1963-10-20 | サンデー毎日 | 毎日新聞社 | 駒沢公園体育館 | 記事 | 空から見ると夢殿か何かのように見える駒沢体育館の屋根だが、これは少しでも建築費を安く上げようという芦原義信氏が苦心の設計で、はからずも日本的建築様式の体育館ができ上がったわけだ。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1963-10-25 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 二つの五輪競技場 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1963-10 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 建設特報 銀座にソニーショールーム |
記事 | ソニービル | |
1963-10 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 「身体ごとぶつかる」 | 織本匠 | ヨウ、お前もか!! と肩をたたき合ったのが東大試験場の廊下、芦原義信氏との因縁は一中時代から始まっている。以来同氏とのきづなは東大を経て今日まで、仕事を通じて連綿として続く。オリンピツク施設の駒沢体育館は両氏のコンビネーシヨンを遺憾なく発揮したものといえよう。 |
駒沢公園体育館・管制塔 |
1963-11-29 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 63について | 芦原義信 | ||
1963-11 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 「基本計画を重視する」 | 河原優(河原設備計画研究所) | 日本航空ホテル | |
1963-12 | The Architectural Review | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1963-12 | THE ROTARIAN | Tokyo Dresses Up for the '64 OLYMPICS | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1963-12 | 近代建築 | 近代建築社 | 駒沢公園体育館 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1963-12 | 国立国際会館設計競技 応募作品集 |
日本建築学会 | 国立国際会館設計競技審査報告書 | 国立国際会館設計競技審査会 | 国立国際会館 [コンペ] | |
1963-12 | 鉄骨建築 | 表紙 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1963-12 | 総合 鉄骨建築 | 表紙 | 写真 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964 46歳 武蔵野美術大学主任教授 | ||||||
1964-00 | Larchitettura | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-00 | 武蔵野美術 | 武蔵野美術大学 | 明日の空間を創る歓び | 芦原義信 | 芸術家が建築を設計すると聞いたとき、在来はどうしても危惧の念がつきまとった、これは芸術家がロマンティストであった時代の名残かもしれない。しかし、設計図として、見た目に非常にデザイン的にすぐれていても、またデッサン力があっても、それが「絵」で終ってはどうにもならない。 | 武蔵野美術大学 |
1964-00 | 武蔵野美術 | 武蔵野美術大学 | 鷹の台校キャンパスの設計にあたって | 保坂陽一郎 | ・・・建築の話に移ろう。まず梁丈寸法が2、100mと3、750mとの二種類のコンクリート大梁が9。600m間隔に交叉して巨大な格子を構成している、この格子の中には、アトリエが交互に一つずつくみこまれているので、アトリエは相互に影響し合わない。又アトリエの数がいくらふえても格子をそれにつれてふやしていけば一つのアトリエの空間は元の状態のままで自由に対応していける。 | 武蔵野美術大学 |
1964-00 | XVIII OLYMPIAD OFFICIAL BULLETIN No5 | Problems and Solution Progress at Komazawa Sports Park |
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1964-00 | LE GUIDE OFFICIEL DES JEUX OLYMPIQUES DE TOKYO | |||||
1964-00 | 国際スポーツ施設展 | 日本建築家協会 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1964-00 | LES JEUX OLYMPIQUES DE TOKYO SOUVENIR OFFICIEL |
SCIENCE ET ARCHITECTURE EN RAPPORT AUT OLYMPIQUES | ||||
1964-00 | 新建材研究座談会 | 鐘淵紡績 日本ゴーレックス工業 |
記録 | |||
1964-00 | オリンピックのてびき 東京大会のために |
東京都オリンピック準備局 | ||||
1964-00 | オリンピックを迎える東京 | 東京都オリンピック準備局 | ||||
1964-01 | Architectural Design | Olympic preview | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-01 | Au jourd hui et | Gymnase au Parc Komazawa | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-01 | 建築界 | 理工図書 | 特別記事 東京オリンピックプロローグ |
記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-01 | 総合 鉄骨建築 | オリンピック 駒沢体育館の構造と施工について |
記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-01 | ユースホステル運営協議会会報 | 日光の思い出 | 芦原義信 | 日光ユースホステル | ||
1964-01 | au jourd'hui | Gymnase au Parc Komazawa | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-01 | Architecture Design | Yatsushiro Municipal Culture Center | 記事 | 八代厚生会館 | ||
1964-01-14 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | チャイムとブザー | 島崎俊樹(東京医科歯科大教授) | 暮れに建築家たちのためのセミナーがあって、そのうちの1回が公開対談という仕組みで、高名な建築家の芦原義信さんと私がオフィスビルの機能について話し合う--そんな企画にのせられてしまった。・・・ | |
1964-01-21 | アサヒグラフ | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-02 | 現代の芸術 | 群としての建築 | 芦原義信 | |||
1964-02 | 週間読売 | 日本の現代建築 5 | 表紙紹介 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-02-03 | L architecture d au jourd hui | 岡山県児童会館 | ||||
1964-03 | 建築と社会 | 日本建築協会 | 座談会 外部空間の構成 |
芦原義信(工博 法政大学教授) 神代雄一郎(工博 明治大学教授) 司会 大久保昌一 松井昭光 |
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1964-03 | 国際建築 | 美術出版社 | 都市機能図・東京(5) | 撮影:牧谷孝則 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-03 | 国際建築 | 美術出版社 | 駒沢公園のオリンピック施設 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-03 | 自然 | 中央公論社 | ずいひつ 高層ビルの問題点 |
芦原義信 | ||
1964-04 | 芸術新潮 | 新潮社 | ぴ・い・ぷ・る 東京の好きな場所 |
芦原義信(建築家) | ||
1964-04 | 建築界 | 理工図書 | オリンピック東京大会の施設3 駒沢公園体育館 |
写真 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-04 | 建築界 | 理工図書 | オリンピック近し | 岸田日出刀(オリンピック東京大会組織委員会施設特別委員長) | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-04 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建設コラム 外国で働く(第1回) |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | ||
1964-04 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建設コラム 外国で働く(第2回) |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | ||
1964-04 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建設コラム 外国で働く(第3回) |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | ||
1964-05 | 芸術生活 | 芸術生活社 | オリンピック施設を採点する | 川添登 | ||
1964-05-15 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 建設する日本 支柱のない曲面の構造 照明の調整もできる駒沢体育館 |
芦原義信 | 赤坂から駒沢にいたるオリンピック道路が、公園にはいって立体交差となる。そこに幅約百メートルの石の階段があり、そこをのぼりつめると、パッと中央広場がひらけ、右側には競技状(4月17日号の本欄参照)、左側にはこの体育館がひかえている。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1964-06 | 新建築 | 新建築社 | 昭和を貫く建築家山脈 | 村松貞次郎 | ||
1964-06 | 武蔵野美術 | 武蔵野美術大学 | 明日の空間を創る歓び | 芦原義信(教授 建築デザイン) | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-06-15 | 週刊新潮 | 新潮社 | 空から見る五輪パターン | 写真記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-07 | 建築文化 | 彰国社 | 鉄骨梁による4枚の異型H.Pシェル |
山本和夫 村上一郎 |
駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-07 | 新建築 | 新建築社 | カメラルポ 完成目指すオリンピック施設 |
記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-07 | 新建築 | 新建築社 | 座談会 オリンピック施設計画を展望する | 岸田日出刀 中山克己 高山英華 角田栄 堀内淳一 村田政真 浜口隆一 |
駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-07-05 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | 歩きながら見る建築 | 神代雄一郎 | いい公園ができたものだ。この程度のものが、もう20か30追加されたら、東京の町の印象もぐんと違ってくることだろう。駒沢運動場オリンピック記念公園は、その中を補助四九号道路がつっきっているが、それを立体交差でうまく逃げているから、神宮外苑のように中を自動車でかき乱される心配がない。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1964-07-31 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 建設する日本 新しい魅力とふんいきの広場 駒沢オリンピック記念公園 |
山本学治 | 絶えず自動車が疾走する補助49号道路が駒沢運動場を通過する地点の両側に、日本ではちょっと類のない幅の広い石敷きの階段が、ゆるやかに続いている。それを上りきると、そこには、さわがしく、動いている道路面と隔絶された静かなオリンピック記念公園がひろがっている。・・・そこを訪れる人々は、神宮外苑や皇居前広揚などとは違った新しい魅力とふんいきを感ずる。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1964-08 | 太陽 | 平凡社 | オリンピックの舞台と楽屋 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-08 | 太陽 | 平凡社 | ここに聖火が・・・ | 杉森久英 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-08 | 太陽 | 平凡社 | オリンピックの舞台と楽屋 | 写真記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-08-04 | 読売新聞 | 読売新聞社 | 偉大なる”いなか” | 記事 | ||
1964-08-23 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | オリンピック施設を評価する | 川添登 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-08 | 建築文化 | 彰国社 | 秀和青山レジデンス | 記事 | 秀和青山レジデンス | |
1964-08 | 建築文化 | 彰国社 | 分譲アパートの建設をふりかえって | 守屋秀夫 | 秀和青山レジデンス | |
1964-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 秀和青山レジデンス | 記事 | 秀和青山レジデンス | |
1964-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 設計メモ | 吉沢栄一 | 秀和青山レジデンス | |
1964-09 | Baumeister | 中曽根邸 | ||||
1964-09 | L'Architecture d' Aujoure'hui | JEUX OLYMPIQUES,TOKYO GYMNASE ET TOUR SIGNAL DU PARC OLYMPIQUE KOMAZAWA |
駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1964-09 | 芸術生活 | 芸術生活社 | 日本人の塔 オリンピックと芦原義信 |
日向あき子 | 先ごろ完成した東京・世田谷の駒沢オリンピック公園では、七月二十日の開園式に先がけ、この日の夕方から試灯式が行なわれた。公園の灯、塔にも聖火台にも初めて灯がともされるというわけ。工事関係の人たち、それに、噂をきいて集まったらしい近所の涼み客らしい人たちもまじって、ちょっとしたお祭気分さえただよっている。 | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1964-09 | ディティール 2 | 彰国社 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1964-09 | マンスリー・エコン | 表紙 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1964-09-15 | サンデー毎日 | 毎日新聞社 | 若人ここに競う 駒沢 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-09-21 | 週間サンケイ | サンケイ新聞社 | 東京五輪パターン | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-09-24 | This is japan | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-10 | Ganadian Interiors | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-10 | Garten Und Landschaft | Im Komazawa Olympia−Park | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-10 | オリンピック東京大会施設作品集 | 第1回日本建築祭実行委員会 | 駒沢体育館 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-10 | 鹿島建設月評 | 鹿島建設 | 記事(切手) | 第18回オリンピック競技大会を記念して発行された切手。レスリング会場となる当社施工の駒沢体育館が描かれている | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-10 | ガラス | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-10 | ジャパン・インテリア | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1964-10 | 新建築 | 新建築社 | 駒沢オリンピック公園競技施設 管制塔と外部空間の構成 |
芦原義信 | かねて一軒一軒の建築の設計というものに疑問をもっていたし、建築と建築との問にできる空問に興味をもっていたところ、はからずも「外部空間の構成」に関する半年問の海外研究の機会があたえられた。・・・帰国したのは1961年の春であった。そのとき駒沢の体育館を設計する機会がすでにあたえられているのを知り、いたくうれしかった | 駒沢公園体育館・管制塔 |
1964-10 | 新建築 Japan architect 102 |
新建築社 | The Komazawa Gymnasium | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-10-11 | 週間読売 | 読売新聞社 | 東京オリンピックへの招待 駒沢スポーツ公園 |
記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-10-30 | 日東之光 | 建築設計家 芦原義信先生に伺う | インタビュー記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-11 | Glass block & brick | 炉辺対談 芦原義信氏 |
ききて 小島功(漫画家) | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1964-11 | The Japan Architect | 新建築社 | The Komazawa Olympic Park | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-11 | 新建築 | 新建築社 | 武蔵野美術大学鷹ノ台校舎・アトリエ | 紹介写真/記事 | 武蔵野美術大学 | |
1964-11 | 新建築 | 新建築社 | 設計のなかでの3つの問題 | 保坂陽一郎 | 日本の大学での美術教育の実状は、現在でも戦前とそう大きく変わっていないように思われる。すなわち最初の1、2年の問は相当みっちりと基礎的な訓練をたたきこまれる。この点武蔵野美術大学の場合も例外でないばかりか、その点については教育方針はかなり徹底していることが設計を通して感じられた。 | 武蔵野美術大学 |
1964-11 | 第11回 早稲田祭 | 講演 建築展を斬る |
講師 吉阪隆正 A.レイモンド 芦原義信 |
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1964-11 | 近代建築 | 近代建築社 | 武蔵野美術大学鷹ノ台校舎図譜 | 配置計画に当たって、大学の内容をどの様な基準で分類するかということが大きな問題であった。一つの方法は現在大学にある各コース、即ち四年制の課程、三年制の教員養成課程、二年制の短期課程などを基準に分類する方法であり、他の一つはデザインと美術という内容に基準をおいて分類する方法である。 | 武蔵野美術大学 | |
1964-11-13 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 駒沢オリンピック公園の散歩 | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1964-11-14 | 図書新聞 | 対談 生活空間の造形誌 「スペースデザイン」の創刊をめぐって |
芦原義信(建築家) 平良敬一(スペースデザイン編集長) |
芦原:比良さん、いつごろどういう雑誌が出るんですか? 比良:11月25日に創刊号がでます。これはだいたいもう入稿がおわりまして、初稿をやっている段階です。 |
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1964-12 | 科学朝日 | 現代の住まい 清家清 チャールズ・テリー著 示唆に富む暮らしの集録 |
芦原義信 | |||
1964-12 | GRASS & ARCHITECTURE | arbo | 武蔵野美術大学鷹の台校舎アトリエ | 武蔵野美術大学 | ||
1964-12 | 建築文化 | 彰国社 | 外部空間の設計 | 芦原義信建築設計研究所 | 八代市厚生会館 香川県立図書館 岡山県児童会館 駒沢公園 武蔵野美術大学 茨城県民文化センター |
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1965 47歳 | ||||||
1965-00 | SPORT in JAPAN | Japan Amateur Sport Association | ||||
1965-01 | 学燈 | パーソナルな空間 | 芦原義信 | |||
1965-01 | 社報 関電工 | 新春放談 20年後の生活パターン |
芦原義信 大滝基 川窪登志夫 与謝野道子 |
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1965-01 | japan architect | 新建築社 | The Takanodai Campus of the Musashino Art University | Yoshinobu Ashihara | 武蔵野美術大学 | |
1965-02 | 新建築 | 新建築社 | 岩波書店営業部・倉庫 | 記事 | 岩波書店営業部 | |
1965-02 | 新建築 | 新建築社 | 岩波書店営業部・倉庫の建物について | 守屋秀夫 | 岩波書店営業部 | |
1965-03 | 建築音響 No1 | 座談会 五輪施設の”音”を語る |
石井聖光(司会:東京大学生産技術研究所) 沖塩壮一郎(二日本電電公社 建築局) 長島正充(都市・建築設計研究所) 松井昌幸(東京工業大学) 鬼頭梓(鬼頭梓建築設計事務所) 守屋秀夫(芦原建築設計研究所) 山田達郎(山田守建築事務所) |
駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1965-03-12 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 読者が選ぶ東京八景 <18> 駒沢オリンピック公園 |
永井 龍男 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1965-04 | S.D | 鹿島出版 | 駒沢体育館 | データシート | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1965-04 | japan architect | 新建築社 | A Storehouse for Iwanami Shoten Publishers | 岩波書店営業部 | ||
1965-05 | Architectural Design | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1965-05 | Baumeister | Komazawa-Stadion, Tokyo | 記事 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1965-06 | 新建築 | 新建築社 | 武蔵野美術大学デザイン校舎 | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1965-06 | Baumeister | Kunstakademie Musashino | 記事 | 武蔵野美術大学 | ||
1965-06 | Baumeister | Kinderzentrus der Prafektur Okayama | 記事 | 岡山県児童会館 | ||
1965-07 | 近代建築 | 近代建築社 | 山陰海岸ユースホステルコンペ 審査員評 |
芦原義信 | コンペ | |
1965-08 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 特別賞 オリンピック代々木体育館および駒沢公園の企画設計ならびに監理 |
高山英華 | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1965-09 | 新建築 | 新建築社 | 東京ビジネスレジデンス TBR | 記事 | 東京ビジネスレジデンス | |
1965-09 | 新建築 | 新建築社 | TBR設計メモ | 守屋秀夫 | 東京ビジネスレジデンス | |
1965-09 | ジャパン インテリア | ジャパン インテリア | 建築空間に参加する喜び | 伊原通夫 | 東京ビジネスレジデンス | |
1965-10 | ジャパン インテリア | ジャパン インテリア | サウナの歓び | 芦原義信 | フィンランドは美しい森と湖にめぐまれている。また人々が親切でやさしく、なんとなく我々日本人と共通する点があるようである。その1つが、フィンランド独特のサウナ風呂であろう。風呂好きの私はいたくこのサウナに感銘してしまった。 | サウナ |
1965-10 | 週刊新潮 | 新潮社 | 秋のマンモス・アトリエ | 記事 | ・・・まだ武蔵野の面影をとどめる中に小ピラミッドふうのアトリエ(三十人収容)十八個を碁盤の目のように連ねるという風変わりな建築である。中央広場から一階ピロティーにはいると秋の風がひんやりと抜けていく、ラセン階段をのぼるとまたテラスふうの空間、そしてアトリエにはいるという仕組み。 | 武蔵野美術大学 |
1965-10-26 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 茶の間 黒皮のベルト |
芦原義信 | ||
1965-11 | 学燈 | 女秘書について | 芦原義信 | |||
1965-11 | 建築設備 | 建築設備総合協会編集 | TBRオフィスビル | 記事 | 東京ビジネスレジデンス | |
1965-11 | 建築設備 | 建築設備総合協会編集 | TBRの建築 | 守屋秀夫 | 東京ビジネスレジデンス | |
1965-11 | 建築文化 No229 | 彰国社 | 「ソニービル計画案」 | 国電有楽町駅を降りて日劇の前を通り、高速道路の下を抜けて急に視界の開けるところ、いわば銀座の玄関口ともいうべきところにソニービルは建つ。ここ数寄屋橋の角から築地に向かう通りは、銀座の中でももっとも交通量の多いところで、京橋から新橋へ向かう通りに代わって、銀座の表通りになってきている。 | ソニービル | |
1965-12-06 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 寒流 婦人秘書の理想像 |
コラム記事 | ||
1966 48歳 | ||||||
1966-00 | Impianti Sportivi | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1966-00 | This is japan | ソニービル | ||||
1966-00 | Bauen mit Holz | Julius Hoffmann | 日光ユースホステル | |||
1966-00 | L architecture d au jourd hui | 武蔵野美術大学 | ||||
1966-01 | 材料と設計 | 建築業協会賞受賞作品 東京都立駒沢オリンピック施設 |
選評 塚本猛次 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||
1966-01 | 公共建築 | 営繕協会 | 座談会 建築設備について |
芦原義信 池田栄一 大滝基 沖信春雄 亀尾赫 野田七郎 森村武雄 司会 横田一麿 |
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1966-01 | SD | 鹿島研究所出版会 | モントリオール万国博・日本館 | 芦原義信 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-01 | 新建築 | 新建築社 | 日本館設計にあたって | 保坂陽一郎 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-01 | 近代建築 | 近代建築社 | モントリオール万国博・日本館 | 守屋秀夫 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-01-01 | 日刊建設工業新聞 | 日刊建設工業新聞社 | サウナ風呂 | 芦原義信 | 芦原さんは大正七年七月七日七人兄弟の七番目として、東京・四谷で呱々の声を上げた。生まれた時間も七時七分だとか。だから私は「ラッキーセブンだ」などといって笑っているがラッキーなだけで今日の地位は築けない。 | サウナ |
1966-02 | DETAIL | 武蔵野美術大学 | ||||
1966-04 | SONY | ソニー(株) | ソニービル竣工パンフレット | ごあいさつ このたび世界のショッピングセンター・銀座 数寄屋橋角に ソニービルを開館するはこびになりました |
ソニービル | |
1966-04 | ソニービル完成に際して | ソニー(株) | ソニービルの設計によせて | 芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | 今般、数寄屋橋のかどの世界でも屈指の場所にソニーピルが竣工し、銀座の新名所として毎日多勢の方々に見ていただいていることは、この設計にたずさわることができた私どもにとつて生涯忘れえぬ喜びであります。 設計をはじめるにあたって、私どもは、一体ソニーとは何であるかについて研究して、そのイメージをこのピルに衰現したいと思いました。 |
ソニービル |
1966-04 | JA | 新建築社 | The Proposed Japanese Pavilion for the Montreal World's Fair | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-04 | 茨城県立県民文化センター パンフレット |
茨城県立県民文化センター | パンフレット | 茨城県民文化センター | ||
1966-04 | 茨城県立県民文化センター 落成記念パンフレット |
茨城県立県民文化センター | パンフレット | 茨城県民文化センター | ||
1966-05 | Aroquitector De mexico 25 | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1966-05 | Aroquitector De mexico 25 | takanodai studios musashino art university | 記事 | 武蔵野美術大学 | ||
1966-05 | 東京大学五月祭 都市空間の形成 |
講演とディスカッション概要 | 講師 芦原義信、槙文彦 司会 船越徹 |
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1966-05-02 | 日本テレビ放送台本 ワイドショー11PM |
日本テレビ | シナリオ | 小島 やあみなさん今晩は小島正雄です。 今夜は、東京銀座 数寄屋橋交差点に来ております。 今晩のお客様は香山美子さんです。さて、この交差点には最近新しいビルが立ちまして銀座に一段と色どりを添えております。・・・・・・あそこにこのビルをお建てになった芦原義信さんがお待ちです。早速うかがいましょう。 | ソニービル | |
1966-05-22 | 朝日ジャーナル | 朝日新聞社 | 音と光りのビル | 斉藤寅郎(建築評論家) | 東京・数寄屋橋の一つの角に音と光の建物、ソニー・ビルが完成して、去る四月二九日に披露、即日、開館した。 数年前、銀座四丁目の角に、ガラス張りの円筒建築、三愛ビルが完成したときも、たいへんな騒ぎだったのをおぼえているが・・・ |
ソニービル |
1966-06 | 暮らしの装飾 | (株)暮らしの装飾社 | 花びら構造を生かした・・・ショールーム | 記事 | 全都の話題をさらった、銀座数寄屋橋角のソニービルは、日本の誇る建築家芦原義信氏がオリンピック駒沢休育館につづいて発表した傑作品の一つである。有機的な形と空間との巧みな融合から生まれた画期的な構造です。恐らく世界でも初めてといわれるこの<花びら構造>は、 | ソニービル |
1966-06 | 内装紙新聞 | 建築家からみた万国博 カナダ博におもう |
芦原義信(武蔵野美術大学教授) | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1966-06 | DETAIL | 武蔵野美術大学 | ||||
1966-06 | ジャパン インテリア | ジャパン インテリア | 合田雄亮(陶芸家) | 造形家と建築家が協力する場合、いろいろの方法があると思う。造形家は単に自己の作品をどこかに陳列するだけでなく、ある建築物に据えつけ建築の一部として溶けあえるような仕事をしたいと興味をもっているだろうし、又建築家は建物を作って後は施主にまかせるのでなく、設計の過程に於て何か素晴しい造形物を建築物そのものに取り入れて効果をあげたいと希望していることだろう。 | 茨城県民文化センター | |
1966-06 | 建築文化 | 彰国社 | 内外空間の連続と非連続 /茨城県民文化センター |
先にわれわれは、本誌218号(昭和39年12月)において〈外部空問の設計>を提案した。 その後、この茨城県民文化センターの設計を通じて、さらに「外部空間の間取り」「外部空間の視覚構造」「外部空問のスケールと肌理」について経験をかさねることができた。 | 茨城県民文化センター | |
1966-06 | 近代建築 | 茨城県民文化センター | 記事 | 茨城県民文化センター | ||
1966-06 | 近代建築 | 茨城県民文化センター 設計上の2・3の問題について | 守屋秀夫 | 県民文化センターは、千波湖からみればちょうど反対の側、湖面に続く少しばかりの水田から、再びゆるやかに丘陵が始まる斜面にある。したがって、街から向ってくる時は、遠くから全貌が見える位置にあると同時に、センターから北の方へは、湖をへだてて市街や借楽園を見渡す絶好の眺望がひらけている | 茨城県民文化センター | |
1966-06 | 新建築 | 新建築社 | 茨城県民文化センター | 記事 | 茨城県民文化センター | |
1966-06 | 新建築 | 新建築社 | 外部空間の構成 茨城県民文化センターの意図するもの |
芦原義信 | 「外部空問の構成」に関する3つの仮説(建築文化1965年12月号)を考えだした。 Exterior Designの第1仮設・・・外部空間においては、内部空間の約9倍(8-9倍)のスケールを用いること Exterior Designの第2仮説・・・外部空問においては、約24.000m-25.000mを1歩度とするスケールを用いること Exterior Designの第3仮説・・・外部空間においては、1歩度(24.000m〜25.000m)について材質が少なくも5〜6cのひだのある単位のものを用いること |
茨城県民文化センター |
1966-06 | S.D | 鹿島出版 | 作品3 茨城文化センター | はら・たかし | 茨城県民文化センター | |
1966-07 | S.D | 鹿島出版 | 作品2 ソニービル | 記事 | ソニービル | |
1966-07 | S.D | 鹿島出版 | 対談 | 芦原義信 鹿島昭一(SD編集顧問) |
鹿島 今日はソニービルのことについて、いろいろ先生にお話を伺いたいと思います。先生自身あのビルができて、どういうふうに感じられますか。 | ソニービル |
1966-07 | Space Design | 鹿島出版 | 像 ソニービルを設計した 芦原義信 | ソニービル | ||
1966-07 | 近代建築 | 近代建築社 | ソニービルにおける花びら形式とその技術的裏付け | 吉沢栄一 | ソニーは常に新しいアイディアと技術を開発する努力を続ける会社である。ビルの設計でもまかせっぱなしということをしない。基本的な構想から細部に至るまで、とことんまで追求して納得しなければOKしない。 | ソニービル |
1966-07 | 建築 | 青銅社 | 空間の構成 外部空間・内部空間 |
芦原義信 | 山崎邸 八代厚生会館 香川県立図書館 駒沢公園体育館 岡山県児童会館 武蔵野美術大学 日本郵船青山寮 |
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1966-07 | 建築 | 青銅社 | 茨城県民文化センター 外部空間の構成 |
佐々木雄二 | 茨城県民文化センター | |
1966-07 | 建築 | 青銅社 | ソニービル | |||
1966-07 | 建築界 | 理工図書 | ソニービル設計に際しての基本的な事項 | 吉沢栄一(芦原義信建築設計研究所) | ソニービル | |
1966-07 | 建築文化 | 彰国社 | ソニービル | 芦原義信 | この設計にたずさわることができたことは私たちにとって生涯忘れえぬよろこびであった。設計をはじめるにあたって、私たちは、この地理的条件についてできるだけの研究をし、単に一個の建築としてでなく、この地域と一体化したビルであることを念願とした。 | ソニービル |
1966-07 | 建築文化 | 彰国社 | 特異な空間を支える装置について | 吉沢栄一 | われわれは今までに、「流動する空間」の提案に始まって、幾度かにわたって空間構造に対するスタディを報告してきた。それは内部空問の迫求より始まり、外部空問の設計にまで至る数多くの貴重な経験の積重ねであった。 | ソニービル |
1966-07 | ジャパンインテリア | (株)ジャパンインテリア | ソニービル | ソニービル | ||
1966-07 | 商店建築 | 商店建築社 | 特集ソニービル | 記事 | ソニービル | |
1966-07 | 商店建築 | 商店建築社 | ソニービルのイメージと文明 | 栗田勇 | ソニービル | |
1966-07 | 商店建築 | 商店建築社 | 座談会 ソニービルのゆくえ |
黒田靖夫(ソニー企画) 坂入弘一(マミーナ銀座店) 竹山実(竹山実建築総合研究所) 古沢英一(芦原義信建築設計研究所) 司会 北健一 |
司会 今日はお忙しいところをお集まりねがいましてありがとうございました。7月号にソニービル全体を取り上げようということになったのですが単に個々の店舗内部の企業体だけでなくてビル自体の採算性とか意味とかそういったものを掘り下げてみたいということでお集まりねがったわけです。 | ソニービル |
1966-07 | 新建築 | 新建築社 | ソニービル | 芦原義信 | 数寄屋橋かどの屈指の場所にソニービルが竣工した。この設計にたずさわることができた私どもにとって生涯忘れえぬよろこびであった。設計をはじめるにあたって、私どもはいったいソニーとは何であるかについて研究して、そのイメージをこのビルに表現したいと思った。 | ソニービル |
1966-07 | デザイン | 美術出版社 | ソニービル 流動するディスプレー空間 |
浜口隆一 | 西銀座・数寄屋橋の一角に、かねてから前評判の高かったノニービルができあがった。現在、オープン早々の新鮮なところで、ホットな話題をまいている最中だが、まだごらんになっていない方のために、ひとわたり誌上ガイドを試みてみよう。 | ソニービル |
1966-07 | デザイン | 美術出版社 | ソニーのデザインとその精神 | 黒木靖男 | ソニーには、ソニースピリットと呼ばれる独特の杜風がある。 1.人のやらないことをやる。 2.他より一歩先を歩く。 3.量より質、生産より開発。 4.常に創造的な活動を求める。 5.世界的視野を持つ。 などである。 |
ソニービル |
1966-07-18 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | モントリオールに学ぶもの 現地座談会 |
丹下健三(建築家) 芦原義信(建築家) 梅棹忠夫(東大助教授) 小松左京(作家) |
モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-08 | The Japan Architect | 新建築社 | The Sony Building | Yoshihiro Ashihara | ソニービル | |
1966-08 | The Japan Architect | 新建築社 | The Ibaraki Prefecture Culture Center | Yoshihiro Ashihara | 茨城県民文化センター | |
1966-08 | 新建築 | 新建築社 | 建築の詰め | 芦原義信 | ||
1966-08 No19 |
Taisei クオータリー | 大成建設株 | 新・スキヤ橋 | 浜口隆一 | ひところ、銀座斜陽化論がとなえられたことがある。ターミナル地区の発展とか常住人口の減少、交通難・駐車難、日本一地価が高くなって、採算べ一スの限界を超えたこと……などの諸要因が積み重なって、さすがの銀座もこのままでは行き詰まるほかはない、と心配されたものである。 | ソニービル |
1966-08 No19 |
Taisei クオータリー | 大成建設株 | 世界のブランドSONYの試み ソニービルを設計する |
芦原義信 | 今般、数寄屋橋かどの屈指の場所にソニー・ビルが竣工いたしました。この設計にたずさわることができたことは私どもにとって生涯忘れえぬよろこびであります。設計をはじめるにあたって、私どもは一体ソニーとは何であるかについて研究して、そのイメージをこのビルに表現したいと思っておりました。 | ソニービル |
1966-08 | JA | 新建築社 | THE AUSTRALIA PAVILION | 日本万国博・オ−ストラリア館 | ||
1966-09 | Toda Construction 12 | 戸田建設 | 茨城県民文化センター | 記事 | 茨城県民文化センター | |
1966-09 | L'Architecture d' Aujoure'hui | Centre culturel du district d'ibaragi | 記事 | 茨城県民文化センター | ||
1966-10 | 室内 | 工作社 | 正体不明のソニー・ビル | 秋田圭 | ソニービル | |
1966-10-29 | The Sydney Morning Herald | We are not alone | 記事 | |||
1966-11 | シナリオ 日本の近代建築 |
シナリオ | ||||
1966-11 | Taisei クオータリー | 大成建設 | モントリオール万国博 日本館建設こぼれ話 |
高西正義(海外部次長) 中里昌弘(日本館新築工事所長) 加藤良雄(同作業所工事係長) 中島享(同作業所工事係) |
モントリオール万国博覧会日本館 | |
1966-11-28 | Life ASIA EDITION |
Haute Cuisine in the Ginza | ソニービル | |||
1966-12 | Building Ideas | The TAKANODAI CAMPUS of the MUSASHINO ART UNIVERSITY,TOKYO | 武蔵野美術大学 | |||
1966-12 | Building Ideas | KOMAZAWA OLYMPIC STADIUM | 駒沢公園体育館・管制塔 | |||
1966-12 | Building Ideas | JAPANESE PAVILION 1967 WORLD’S FAIR MONTREAL,CANADA | モントリオール万国博覧会日本館 | |||
1966-12 | Building Ideas | IBARAGI CULTURAL CENTER | ||||
1966-12 | Building Ideas | SONY BUILDING Ginza,Tokyo | ソニービル | |||
1966-12 | Building Ideas | YOUTH HOSTEL NIKKO JAPAN | 日光ユースホステル | |||
1966-12 | 鋼構造 | 三ツ木出版社 | 「ドライ・コントラクション工法を採用したソニービル新築の構造にみる設計と施工」 | 山本和夫(織本匠構造設計研究所) 藤沢秀雄(織本匠構造設計研究所) |
ソニービル | |
1967 49歳 | ||||||
1967-01 | 新建築 | 新建築社 | これからの10年 | 芦原義信(建築家) | ||
1967-01 | JA | 新建築社 | The Musashino Art University Library | 武蔵野美術大学 | ||
1967-01 | 近代建築 1月号 | 近代建築社 | 日本館中間レポート | 保坂陽一郎(芦原建築設計研究所) | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-01 | 銅 COPPER & BRASS |
日本銅センター | 座談会 近代建築と銅の利用 |
清水一(大成建設顧問) 芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) 和田忠朝(日本銅センター専務理事) |
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1967-01 | 婦人之友 | 婦人之友社 | 今年の意欲 | 芦原義信(建築家) | ソニービル | |
1967-02 | 近代建築 | 近代建築社 | フィンランド建築の育つ風土 森と湖の国の人情と風物詩 |
芦原義信 藤森健次 佐々木宏 |
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1967-02 | ARCHITECTURAL AND ENGINEERING | PREVIEW | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1967-03 | S.D | 鹿島出版 | 座談会 新しい都市景観の創造へ |
芦原義信 川上秀光 菊竹清訓 八十島義之助 山本学治 吉阪隆正 | ||
1967-03 | 新建築 | 新建築社 | シンポジウム 建築と都市の開発 |
浜口隆一 丹下健三 大江宏 吉村順三 大高正人 伊藤要太郎 神谷宏治 黒川記章 剣持勇 小林保治 河合健二 金子正則 稜田整治 流政之 | ||
1967-03-17 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 熱気100度の浮世ぶろ サウナバス繁盛記 |
記事 | こうしたファンの中で、第一人者と任じているのが建築家の芦原義信さんだ。芦原さんは営業中のサウナぶろにほとんど行かない。ブームの始るずっと前に、すでに自家用サウナを持っていたからだ。自宅の狭い庭のほとんど半分をさいて、サウナ小屋が建っている。 | サウナ |
1967-03-30 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | カナダ万博日本館 空に浮く校倉づくり 発想は”股の下から富士山覗く |
対談 芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) 田中孝(本社専務取締役) |
モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-04 | アルミニウム | 軽金属協会 | 声 | 芦原義信 松田軍平 小川正 酒井勉 田中誠 藤田金一郎 根本茂 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-04 | 週刊新潮 | 新潮社 | 春を待つモントリオール | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-04-29 | Montreal Gazatte | 博覧会における建築物 | モントリオール万国博覧会日本館 | |||
1967-05 | 新建築 | 新建築社 | 武蔵野美術大学・美術資料図書館 | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1967-05 | 新建築 | 新建築社 | ムサ美設計メモ | 沢田隆夫 | ・・・この南側のゾーンには、南の光が要求されるような事務室や研究室などが集められ、北側のゾーンには、比較的容積の大きな会議室や展示室などでかためてある。 こうした室の配分は、南側を3層に、北側を2層とする、いわゆるスキップ・フロアーのシステムを可能とした。 |
武蔵野美術大学 |
1967-05 | 建築界 | 理工図書 | 武蔵野美術大学 美術資料図書館 | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1967-05 | 建築文化 | 彰国社 | 大学のシンボルと学生たちのシンボル | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1967-05 | アサヒグラフ | 朝日新聞社 | EXOP'67 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-05-10 | 東京新聞 | 東京新聞社 | 庭園、まっ茶に人気 帰国の万国博設計者芦原教授にきく |
インタヴュー記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-06 | YTV放送台本 | 読売テレビ報道部 | 特別放送番組 「モントリオールから大阪へ 日本万国博あと1,000日」 |
出演者 菅野義丸(日本万国博協会副会長) 芦原義信(モントリオール博日本館設計者) 嶋内義明(読売テレビ放送 報道部員) 司会 山田孝子(読売テレビ放送) |
モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-06 | 現代の住宅設計140選 | 山崎邸 | ||||
1967-06 | ディティール 13 | 彰国社 | 特集 外部空間のディティール 外部空間デザインの心理的効果 駒沢公園 |
上野宏 岡田新一 押野見邦英 高橋鷹志 廣瀬豪 三宅敏郎 |
駒沢公園体育館・管制塔 | |
1967-06 | 毎日グラフ | 毎日新聞社 | 校倉造りの内と外 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-06-20 1967-06-03 1967-07-04 1967-07-07 1967-07-10 1967-07-14 1967-07-17 1967-07-20 1967-07-21 1967-07-22 1967-07-24 1967-07-25 |
日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 建築夜話 対談 花開くモントリオール |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) 高西正義(大成建設大阪万博部部長) 戸塚文子(評論家) |
モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-07 | 伊勢丹ホームレディー | 河内桃子の談話室 ”憩いの場”のある都市計画を |
芦原義信(建築家) 河内桃子 |
・・・フインランドではご承知のとおり、ことばも日本語に似てる分野があるんですよね。「たとえば酔っぱらう」というの「ヨパラッタ」というんですね。それから、うちの息子、太郎っていうんですけど「タロー」というのは「建築」っていうことなんです。石造建築「キビタロー」、木造建築「ツータロー」っていうんです(笑い)。 | サウナ モントリオール万国博覧会日本館 |
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1967-07 | 近代建築 | 近代建築社 | アイディアの饗宴−−万国博 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-07 | 建築文化 | 彰国社 | モントリオールに本館の設計によせて | 芦原義信 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-07 | デザイン | 美術出版社 | 現地の印象 丹下健三氏に聞く |
インタヴュアー岡田隆彦 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-07 | mobilia | Expo 67 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1967-07 | The Architects’Journal | ALCAN | Japan | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1967-07 | Baumeister | expo67 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1967-07 | Architectural Design | Expo 67 | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | ||
1967-08 | DUPLEX | セントラル硝子 | モントリオール日本館 設計趣旨について 日本館の構造と施工について |
芦原義信 保坂陽一郎 村上一郎 |
日本の建築というのは最近世界的に定評がありますから、モントリオール博では、各国とも日本がどういう館を建てるのかと、かなり興味があったと思います。というのは、日本の建築的伝統と、建築の近代化というか、工業化が進んでおりますから、そういう点でアジアのほかの国みたいに、今さら切妻の屋根をかけるとか、そういうわけにもいきません。 | モントリオール万国博覧会日本館 |
1967-08 | 新建築 | 新建築社 | 日本館の設計について | 芦原義信 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | Taisei クオータリー | 大成建設株 | 日本館の設計にあたって | 芦原義信 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | 新政 | 新政同志会 | 時代を開く 人間不在から人間有材への政策を |
芦原義信(建築家) | ||
1967-08 | 建築東京 | 東京建築士会 | 芦原義信建築設計研究所 作品 | 記事 | ソニービル モントリオール万国博覧会日本館 武蔵野美術大学 |
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1967-08 | GRASS & ARCHITECTURE | 旭ガラス | モントリオール万博印象記 | 浜口隆一 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | GRASS & ARCHITECTURE | 旭ガラス | EXPO67の出展と演出 | 田村倫昭 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | GRASS & ARCHITECTURE | 旭ガラス | 観客を引き入れるもの・引き入れないもの | 堀江史朗 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | JA | 新建築社 | THE JAPAN PAVILION | 記事 | モントリオール万国博覧会日本館 | |
1967-08 | インテリア | 学芸書林 | 武蔵野美術大学美術資料図書館 | 沢田隆夫 | 武蔵野美術大学 | |
1967-09 | 美 | 美術出版社 | 二川幸夫 現代建築家シリーズに取組む |
芦原義信 | ||
1967-09 | md | Japan | ||||
1967-10 | 建築 | 青銅社 | 特集 芦原義信建築設計研究所 | 山崎邸 中央公論ビル 横浜市立市民病院 日本航空ホテル 日光ユースホステル モントリオール万国博覧会日本館 八代市厚生会館 香川県立図書館 駒沢公園体育館・管制塔 岡山県児童会館 ソニービル 東京ビジネスレジデンス 茨城県民文化センター 武蔵野美術大学 日本郵船青山寮 |
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1967-10 | 建築 | 青銅社 | 対談:芦原義信--槙文彦 都市・建築のデザインと今後の課題 |
槇文彦 芦原義信 |
槇:芦原さんにはじめてお会いしてからもう10年以上になりますね。どのようにして建築家になられたのですか。 芦原:僕は、そもそも戦後復員してまいりまして、虚脱状態でどうしたらいいかなと考えているとき、たまたま東京都の復興のコンペがあったんです。 |
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1967-10 | 建築 | 青銅社 | マルセル・ブロイヤー | 芦原義信の作品にはいろいろな手法が複雑に組みあわさっているように見えるが、よく調べると幾何学と、詩情と、創意の三つのものが、同時に私にせまってくるのを感じる。驚く程変化に富んだ解決が打ちだされているのは、彼が研究心と、とらわれない心をもっている証拠である。 | 日光 駒沢公園体育館 モントリオール万国博覧会日本館 |
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1967-10 | 建築 | 青銅社 | 東京ビジネスレジデンス 1965 | 記事 | 東京ビジネスレジデンス | |
1967-10 | 自然 | 中央公論社 | モントリオール博 印象記 | 松信 | ||
1967-12 | Building Report No1 | 日本建築家協会 | BUILDONG REPORT_ソニービル | 芦原義信 | ソニービル | |
1967-12 | 週刊 建設ニュース | 建設ジャーナル | 現地で好評だった日本館 −モントリオール万国博から− |
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1967-12 | 女性生活セミナー | 講座 インテリアデザイン |
講師 芦原義信(建築家 武蔵野美大教授) 林雅子(建築家 桑沢デザインスクール講師) 竹山実(建築家 武蔵野美大助教授) 漆原美代子(インテリアデザイナー 多摩美大講師) |
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1967-12 | md | Kulftuzenfrum in Mito/Japan | 茨城県民文化センター | |||
1968 50歳 | ||||||
1968-00 | 建築年鑑 | ソニービル | ||||
1968-00 | 第3回セントラル硝子建築設計競技作品集 | セントラル硝子 | 審査講評 | 芦原義信 | コンペ | |
1968-01 | DUPLEX | セントラル硝子 | 座談会 '68年の建築界 |
清水一(司会)、松田軍平 芦原義信 八巻朗 鈴木洋平 川原義友 公山謙一 大塚英一 渋江辰雄 | ||
1968-02 | 伊奈だより | 伊奈製陶 | タイルこそ男性文化の象徴 | 芦原義信(建築家) 嶋富士夫(鹿島建設設計部) |
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1968-03 | 現代建築家シリーズ第5巻 | アルヴァ・アアルトについて | 芦原義信 | |||
1968-03-03 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 芸術選奨きまる | 記事 | 芸術選奨 | |
1968-05 | 新建築 | 新建築社 | 武蔵野美術大学・本館/彫刻棟 | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1968-05 | ホテル レストラン | ジス・ウイーク・イン・トウキョウ | 霞ヶ関東京會舘 | 記事 | 霞が関東京会館 | |
1968-05 | ガラス GLASS & ARCHITECTURE | ジス・ウイーク・イン・トウキョウ | 超高層インテリア | 大井清嗣 | とうとう霞が関ビルができてしまった。日本で初めての超高層ビルということで、早くからジャーナリズムをにぎわし、マスコミに数々の話題を提供しながらも、この巨大なマスは、東京の中心部に、日本中の注目する中で、ゆうゆうと多くの記録を残しながら出来ていった。地上36階、147m、延床面積10万m2、収容人口約1万5千人、利用人口1日のべ10万人、等々、まさに、1つの町にも相当するようなスケールである。 | 霞が関東京会館 |
1968-05-10 | 週間朝日 | 朝日新聞社 | 公私拝見 まい ういーく | 芦原義信 | 木曜日 朝は所員全員の定例打合せ。来客の対応や、新しい設計の打合せできわめて多忙。夜は建築学会賞委員会に出席。過労のせいか気分すぐれず早めに帰る。夜中、雨しとしと。 | |
1968-06 | a+a | アルミニウム応急住宅設計競技 審査員評 |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長) | コンペ | ||
1968-06 | 公共建築 | 営繕協会 | 座談会 レジャーと宿泊施設 |
芦原義信 菊竹清訓 司会 高野隆 |
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1968-06 | 近代建築 | 近代建築社 | 霞ヶ関東京會舘 | 記事 | 霞が関東京会館 | |
1968-06 | 新建築 | 新建築社 | 芦原義信氏の芸術選奨記念パーティー開かる | 記事 | 芸術選奨 | |
1968-06 | 新建築 | 新建築社 | 霞ヶ関ビルディング | 記事 | 霞が関東京会館 | |
1968-06 | SD | 鹿島研究所出版会 | 霞ヶ関ビルディング | 記事 | 霞が関東京会館 | |
1968-06 | SD | 鹿島研究所出版会 | 注目したいインテリア | 霞が関東京会館 | ||
1968-06 | 商店建築 | 霞ヶ関東京會舘 プルニエのインテリアを担当して |
岩崎信義 | レストランプルニエは皇居側の妻を中心にしたコの字型の平面 眺望を十分に活用するため窓側を客席とし厨房を含むコア側を通路とした。 | 霞が関東京会館 | |
1968-06 | インテリア | 学芸書林 | 仕事師登場 | 光藤俊夫 | 霞が関東京会館 | |
1968-06 | 芸術新潮 | 新潮社 | 霞ヶ関ビル35階のインテリア | 坂根巖夫 | 昼問の明るい外光のもとでは、それはただの巨大な鏡にみえる。夕刻、大陽が沈み、下界に灯がともりはじめるころ、その鏡は妖しく変貌し、透明皮をまして、向う側の”もう一つの宇宙"を一浮び上らせる。 | 霞が関東京会館 |
1968-06 | 銀座ロータリー | 会員名簿 | ||||
1968-06-28 | Beton Konstruktionen Im Hochbau | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1968-07 | JA | 新建築社 | MAIN BUILDING AND SCULPTURE WING AT THE MUSASHINO UNIVERSITY OF ART | 記事 | 武蔵野美術大学 | |
1968-07 | JA | 新建築社 | 記事 | 霞が関東京会館 | ||
1968-09 | 新建築 | 新建築社 | 「ガラスの未来」をテーマとした万博パビリオン 建築設計競技入選発表 | 審査講評 芦原義信 |
コンペ | |
1968-09 | L'Architecture d' Aujoure'hui | THE MUSASHINO ART UNIVERSITY LIBRARY | 記事 | 武蔵野美術大学 | ||
1968-10 | 建築文化 | 彰国社 | 計画案 富士フィルム東京本社ビル | 守屋秀夫 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1968-10 | 建築文化 | 彰国社 | しんけんちく・にゅうす 富士フィルム東京本社ビル |
記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1968-11 | イシコ | 石川島コーリング | 思い出の作品 「駒沢オリンピック体育館」 |
芦原義信(建築家) | 駒沢公園体育館・管制塔 | |
1968-11 | Taisei クオータリー | 大成建設 | 武蔵野に立つユニークな造形群 武蔵野美術大学 |
記事 | 武蔵野美術大学 | |
1969 51歳 | ||||||
1969-00 | Architecktur Und Wohnform | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1969-00 | Contemporary Japanese Archiecture | Yoshinobu Ashihara | ||||
1969-00 | Contenporary Japanese Architecture | ソニービル | ||||
1969-00 | New Derection in Japanese Architecture (Robin Boyd) | ソニービル | ||||
1969-00 | Tempel:Nuova Architecture Giapponese | 駒沢公園体育館・管制塔 | ||||
1969-00 | Nuova architecttura giapponese | Edizioni di Comunita Milano | 駒沢公園体育館・管制塔 モントリオール万国博覧会日本館 |
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1969-00 | 第4回セントラル硝子建築設計競技作品集 | セントラル硝子 | 審査講評 | 芦原義信 | コンペ | |
1969-00 | MIC | 日経アルミニウム工業 | 富士フィルム東京本社ビル 内外装施工特集 |
記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-02 | 鋼構造のはなし | 日本鋼管 | 鋼構造と建築のデザインについて | 芦原義信 | ||
1969-02 | CAST | 久保田鉄鋼 | 富士フィルム東京本社 | 織本匠 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-03 | 現代建築家シリーズ | 美術出版社 | マルセル・ブロイヤーについて | 芦原義信 | 1953年の夏には、ハーバード大学の大学院を卒業することになった私は、同級生が三々五々、設計製図を自動車につんで、いわゆるjob-huntingに出発してゆくのをまのあたりにみて、ビザを延長できる1年間だけ、実際の設計事務所で働いてみたいと考えた。そこで、あれこれ研究してみた結果、世界の大都会であるニューヨークにでて、マルセル・ブロイヤーの設計事務所に勤めたいとの結論に達したので、思いきって面会したい旨の手紙を彼あてにだしてみた。 | |
1969-04 | The Japan Architect | 新建築社 | 日本万国博・オ−ストラリア館 | |||
1969-04 | The Japan Architect | 新建築社 | 日本万国博・ニュ−ジ−ランド館 | |||
1969-04 | The Japan Architect | 新建築社 | 日本万国博・イタリア館 | |||
1969-04 | ソニービルニュース [ソニー企業] |
「ソニービルも開館4年目を迎えます」 | ソニービル | |||
1969-05 | サンケイ新聞 | サンケイ新聞社 | すてきな女 大森昭子 |
推薦人 芦原義信 | 大森さんはボクの友人のそのまた友人の娘さんです。おととしのモントリオールの万国博で、各国から選ばれた若い女性にまじって、カナダ太平洋航空関係のホステスをしていました。ボクも日本館の設計をしたのだ。五、六回カナダヘ行っねのに、残慾ながら忙しくてそのときは会えませんでした。 | |
1969-06 | 現代建築とフロアデザイン | ブロンズ社 | 音響製品メーカーのショールーム | 浜口隆一 市坪和武 | ソニービル | |
1969-07 | The Architect | Contemporary Japanese Architecture | Guido Longinotti | |||
1969-08 | 新建築 | 新建築社 | 富士フィルム東京本社ビル | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | 新建築 | 新建築社 | 富士フィルム東京本社ビルのカーテンウヲール | 守屋秀夫 | このビルは専用ビルである。しかしネオン看板や大きな社名文字は出したくない。せっかく18階建てにするのだから、スマートさで人目につくものにしたい。だから、せめて建物の表現として写真フィルムのイメージをだして、人びとに印象を与えるものにしたいというのが、立面にたいする最初からのねらいであった。 | 富士フイルム東京本社ビル |
1969-08 | 建築 | 内外出版 | 富士フィルム東京本社ビル | 吉沢栄一 | 高層部分の平面型が扁平8角型をしているのは、弓なりに曲った前面道路と周辺の街並みを考慮した結果であるけれども、道路に面した南側だけでなく北面も屈折した外壁面としたことは、周囲のスカイラインよりぬきんでた高層部分のシルエットは、街並みの影響を脱してむしろ彫塑的な形態こそふさわしいと考えたからであり、都市景観に対する具体的な提案の一つである。 | 富士フイルム東京本社ビル |
1969-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 現代の表情を持つ高層ビル 富士フィルム東京本社ビル |
記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | 近代建築 | 近代建築社 | 富士フィルム東京本社ビルの計画 特に1階廻りの構成を中心に |
佐々木雄二(芦原義信建築設計研究所) | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | インテリア | 双栄 | 富士フィルム東京本社ビル | 守屋秀夫 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | インテリア | 双栄 | 富士フィルム東京本社ビル <この華麗なる展開> |
プロジェクト・パン 中嶋昌信、榎本建規、清水重夫、横沢国夫、山口隆史 |
「我々建築象は、個々の建築を創っていながら、或は都市の形態に対して、大きな罪悪を犯しているのではあるまいか・・・・・・」かって芦原義信がある文章の中で、やや告白めいた口調で、自問していた事を記憶する。 | 富士フイルム東京本社ビル |
1969-08 | 建築界 | 富士フィルム東京本社ビル | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1969-08 | 建築界 | 富士フィルム東京本社ビルの設計 | 守屋秀夫 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1969-08 | 芸術新潮 | 高層建築のニューデザイン | 記事 | 東京麻布の低い家並の中に高層建築が出現した。十八階建の富士フイルム本社ビルがそれである。前面を高架高速道路が走り、近くに広場がないので、全体を問近に眺めることはできないが、高台に建っていることもあって遠くからめだつ建物である。 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | 商店建築 | 富士フィルム東京本社ビル | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1969-08 | 商店建築 | 交通に形を与える 現代建築の空間概念 |
岡田隆彦 | 富士フイルム東京本社ビル | ||
1969-08 | a+a | 日経アルミニウム工業 | 富士フィルム東京本社ビルの設計について | 佐々木雄二(芦原義信建築設計研究所) | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | a+a | 日経アルミニウム工業 | メーカーとしての苦心談 | 日経アルミニウム工業建材設計2課 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-08 | 三機マンスリー | 三機工業 | 富士写真フィルム新社屋 給排水衛生設備工事概要 | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-09 | シートグラス | 日本板硝子 | ブルの顔--きらめくガラススクリーン | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-09 | 建築設備 | 光元社 | 富士フィルム東京本社ビルの建築と設備 | 記事 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-09 | 建築設備 | 光元社 | 富士フィルム東京本社ビルの建築設計 | 吉沢栄一(芦原義信建築設計研究所) | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-09 | 建築設備 | 光元社 | 富士フィルム東京本社ビルの設備設計 | 中村浩毅(建築設備設計研究所) 山田熙(建築設備設計研究所) |
富士フイルム東京本社ビル | |
1969-09 | 建築設備 | 光元社 | 富士フィルム東京本社ビル新築工事 工事記録 | 千葉智明(鹿島建設建築部) | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-11 | 建築文化 | 彰国社 | 富士フィルム東京本社ビル プレリミナリーデザインから誕生まで |
六本木方面から、この敷地を通って青山6丁目へぬける道路にそって、線状に路線商業地域に指定されており、そのすぐ後背地は、住居地域あるいは住居専用地域となっている。ここに新しいビルを計画するにあたって、どんな形体を与えるかが問題であった。 | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-11 | JA | 新建築社 | MAIN OFFIEE OF THE FUJI PHOTO FILM COMPANY | Hideo Moriya | 富士フイルム東京本社ビル | |
1969-12-13 | 銀座ロータリー週報 | 東京銀座ロータリークラブ | ハワイ大学だより | 芦原義信 | 教育 ハワイ大学 | |