掲載年月 | 掲載誌 | 発行 | タイトル | 執筆者 | 書き出し・抜粋文章 | 備 考 |
1950 32歳 | ||||||
1950-06 | 新建築 | 新建築社 | ルネ・フジタ君の作品 REN'E FUJITA君のプロフィル |
芦原義信 | 設計者 RENE'FUJITA君は、1929年スイスに生まれたというから、今年正に21歳の最少壮建築家の一人であろう。・・・日本に来てすぐ坂倉準三氏の設計事務所に入所して、そこで一緒に仕事をしたのが縁の始まりである。 | |
1951 33歳 | ||||||
1951-10-24 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 美しい小住宅 簡素で機能的な設計モデル 台所も明るく開放 |
記事 | 東京小田急線代々木上原駅に近く、回教教会堂の円屋根が異国的感じを出す丘陵地の一角に新築の小住宅四戸が配置よく並んでいる。一戸は老夫婦、それを囲む三戸はその息子さんたちの家で、住む人々の立場、職業、趣味を考えて細かい設計上の注意が払われている。 | |
1951-10-24 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 纒った小住宅四戸 個性を生かした親子の家 |
記事 | 東京小田急線代々木上原駅に近く、回教教会堂の円屋根が異国的感じを出す丘陵地の一角に新築の小住宅四戸が配置よく並んでいる。一戸は老夫婦、それを囲む三戸はその息子さんたちの家で、住む人々の立場、職業、趣味を考えて細かい設計上の注意が払われている。 | |
1952 34歳 | ||||||
1952-00 | 日刊建設通信 | 日刊建設通信社 | 人間派都市計画(1回〜6回) | 芦原義信 | 最近、東京の生活も考えて見ますとどうしても非人間化された都市だ、という風に思えます。 | |
1952-03 | 新建築 | 新建築社 | T氏夫妻の家 生活を中心とした住宅 |
芦原義信 | 現在私を困らせる問題の一つは技術の裏づけと表現とをどいう風に取扱っていったらよいかと云うことである。鐵筋コンクリート造に切妻屋根をつけて問題となったのは何年も前の話だけれど、木造に例えば、フラットルーフやバタフライ屋根を採用することはそれと同じ意味で次の問題となるであろう。 | |
1952-03-08 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 美しい住宅地の提唱 ”明日では遅すぎる”欲しい総合性と計画性 |
芦原義信 | 戦後の小住宅の特徴はおそらく自分達の生活を中心としたゆき方であったといえよう。食堂と直結する明るい便利な台所、来客よりは家族のための居間、 | |
1952-05 | 新建築 | 新建築社 | メキシコ建築(訳) | エスター・マッコイ 訳:芦原義信 |
メキシコ人は家の中の生活を重んじ外観は二の次とするのが特徴だが、そのようなメキシコ人の特徴を、その建築に使う材料によって表現しようというのが、この頃の建築上の傾向である。 | |
1952-07-12 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 涼しく暮す工夫 窓を網戸やヨロイ戸に |
芦原義信 | 暑さがきびしいといわれる今年の夏はせめて家の窓などにちょっと手を加えて涼しく暮らしたいもの。そんな工夫について建築家芦原義信氏に聴いてみた。 | |
1953 35歳 ハーバード大学大学院卒業 マルセル・ブロイヤー設計事務所に入所 | ||||||
1953-00 | New York Times | GARDEN HELD PART OF HOME IN JAPAN | BETTY PEPIS | Attempt to Combine House and Nature Is Noted by Tokyo Architect Now Studying Here | ||
1953-04 | 新建築 | 新建築社 | アシハラ・レポ ハバード大学グラジュエートセンターの生活 |
芦原義信 | グロピウス設計のハーバード大学のドミトリーの写真は日本に居るときから何回となく眺めていたが、まさか自分がこの中の部屋に寝起きする身になるとは思っていなかった。 | |
1954 36歳 | ||||||
1954-01 | Nippon Times | Activities of Japanese in the U.S | 記事 | |||
1954-06 | 新建築 | 新建築社 | 聖ジョーンズ修道院の設計について | 芦原義信 | この教会堂、修道院、大学の建物の設計は昨年の春から始められ、約1年を経過し、図面の如き基本設計を完了、現在詳細設計中である。 | |
1954-06 | 新建築 | 新建築社 | ニューヨーク便り | 芦原義信 | その後皆様御元気にお仕事のことと存じます。小生おお蔭様でますます健在です。先週南米行きの大江氏一行が紐育に見えたので紐育、ニューケノン、ボストン等を案内しました。 | |
1954-07-12 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | アメリカの日本建築 面食らうほど好評 発見された近代性 簡素な表現が受ける |
関根特派員 記事中に芦原義信の発言 |
ニューヨーク近代美術館の中庭に今春三月以来建築を急いでいた桃山時代書院造り、六十坪の日本建築が完成し、二十日から公開の運びになった。 | |
1954-11 | 新建築 | 新建築社 | コア アメリカに及ぼした日本建築の影響 |
芦原義信 | 日本の伝統的な建築に対する海外の関心は戦後とみにたかまり、そのなかでもアメリカにおける関心は特に深いと思える。それは日本の建築の中にアメリカの求めている近代性があるからで、 | |
1954-11-11 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 米国の新しい住宅 木造建築に学ぶべき着想 |
芦原義信 | [写真]1グロピウス氏(円内)がドイツで提唱したバウハウス運動(機能的な近代建築の運動)をナチスに弾圧され、ハーバード大学の教授となってから間もなく、同大学のあるボストンの郊外に建てた自宅である。 | |
1954-12 | 新建築 | 新建築社 | ビルの谷間に咲きいでた花 ニューヨークの近代美術館に展示された書院造 設計監理・吉村順三 |
芦原義信 | ニューヨークの5番街は、マンハッタン島を南北に縦断し、34丁目にあるEmpire State Buildingの102階をはじめ、高層アパート、高級商店のビル等がくしのはのように並ぶ通りで、その西に、53丁目と54丁目の間の市の心臓部というべきところに近代美術館がある。 | |
1955 37歳 法政大学工学部講師 | ||||||
1955-00 | 法政大学技術連盟建築研究会 | 将来への希望 | 芦原義信 | 考えようによっては我々は不幸な時代に生まれたともいえようが、また考えようによっては生き甲斐のある時代に生まれたともいえよう。 | ||
1955-00 | KRANKENHAUSER | 横浜市立市民病院 | ||||
1955-01 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 欧米の住宅を見て 一建築家の話 |
芦原義信 | フランスやイタリアをまわっていると、住居が石や煉瓦を積上げてできた半永久的な、どっしりとしたもので、質的にわれわれと異なった考え方をもっているに違いないと思う。 | |
1955-01 | 静岡新聞 | 静岡新聞社 | 東の風・西の風 日本建築アメリカ建築へ及ぼした影響 |
芦原義信 | 海外、特にアメリカに於ける日本建築や芸術に対する関心は最近とみに深いといえよう。その原因は終戦以来、日本を訪れた多くのアメリカ人が日本の思い出を日常生活にとりいれるため、チョウチン、日傘、人形等を室内にかざっているが、これは表面的な影響であって、もっと深く根源的な両者の関係がないであろうか、 | |
1955-01 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 問題の多い日本の住宅 | 芦原義信 | フランスやイタリアをまわっていると、住居が石や煉瓦を積上げてできた半永久的な、どっしりとしたものであることが印象ふかい。このような家に生まれ窓の小さい薄暗い石の壁から毎日圧力を感じながら育った人達は。家そのものにたいし体質的にわれわれとことなった考え方をもっているに違いないと思う。 | |
1955-01 | 婦人公論 | 中央公論社 | 建築家の夢 | 蘆原義信 | 二年あまりの滞米生活から帰って、つよく感じるなは東京の混雑のひどさであり、それが国鉄の増車計画などでは解決できない問題であるということである。 | |
1955-01 | 婦人公論 | 中央公論社 | 建築家の夢 | 蘆原義信 | 二年余の滞米生活から帰って、つよく感じるのは東京の混雑のひどさであり、それが国鉄の増車計画などでは解決できない問題であるということである。 | |
1955-02 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 米国の建築に日本味 | 芦原義信 | 昨年ニューヨークの真中に書院造り風の住宅が建てちれたほか、日本的な様式が新しい建築にとい入れられており、日本の芸術や建築が大きい反響を呼んでいる。これは何に由来しているのであろうか。 | |
1955-03 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 日本建築のアメリカ建築に及ぼした影響 | 芦原義信 | 1、アメリカが鉄、ガラス、セメントなどの近代工業の発達により、ヨーロッパの伝統たる石を一つ一つ積む組積造をはなれて大きな開口部をもつ架(はり)と柱の構造法に移ってきたとき、日本の気候・風土が必要とした大きな開口部を持つ伝統的な日本建築が、長い年月の間に洗練されてきたのを知り、その近代性に驚嘆した。 | |
1955-04 | 建築界 | 理工図書 | アメリカで働くの記 | 芦原義信 | 羽田の国際飛行場で自分のこれから乗つてゆくパン・アメリカンの四発飛行機をまのあたりに眺めたのは1952年夏の頃であつた。仕事の関係から、羽田の国際的ふんいぎとはおよそ縁の遠いはんてん姿の職人達の心からの見送りのうちに飛行機は一路ハワイヘ向つて太平洋を東へと進んでいた、 | |
1955-04 | 新建築 | 新建築社 | 建築におけるヒューマニゼイションの方向について | 芦原義信 | 1900年頃から1930年代に登場した近代建築はヨーロッバの伝統的様式建築に対する抵抗として発展し、ついに見事に様式の破壊に成功したようにみえた。ところが一度破壊してみると、その近代建築が視覚芸術として十分に成熟していないのではないかと考えるようになつてきた。 | |
1955-05 | 産業経済新聞 | 産業経済新聞社 | アメリカの日本建築熱 木造建築にある近代性の攝取 |
芦原義信 | 最近アメリカでは、障子や畳おもてはもとより床の間には活花に掛軸、窓には竹のすだれにチョウチン、庭には形のよい植込みに自然石といったように、伝統的な日本建築の雰囲気をもったものがふえてきた。 | |
1955-05 | 新建築 | 新建築社 | 建築と視覚芸術(訳) | セルト 芦原義信(訳) |
私はハーバード大学に最近きたので、もしみなさんが既にご存知のことをしゃべったり、自分の考えを表現するのに正確さをかく点がありましたらおゆるしいただきたい。 | |
1955-07 | 美術手帳 | 美術出版社 | アメリカの生活と芸術 | ニュヨークの摩天楼の谷間に夕闇がせまり、一日の仕事を終わってビルからはきだされる人々の群れが地下鉄の入口にすいこまれるのをじっと見ていると、どれもこれも、ま新しい折目ただしい洋服に清潔なYシャツといういでたちである。 | ||
1955-08 | 新建築 | 新建築社 | しんけんちく・にゅーす 丹下邸の国際的パーティー |
記事 | 丹下健三 | |
1955-09 | 婦人公論 | 中央公論社 | ヨーロッパの田舎 | 芦原義信 | 印度洋航路をおえて、船が夢多い地中海にはいれば、ヨーロッパ大陸は眼の前にせまってくる。フランスやイタリーの田舎には、案外、近代文明と縁の遠い昔のままに静かに眠っている小さな町がある。 | |
1955-12 | 建築設備 | 建築設備総合 協会編集 |
分譲住宅設計とその工事中に気が付いたこと | 井上一(芦原建築設計研究所) | 秀和青山レジデンス | |
1956 38歳 芦原義信建築設計研究所創立 | ||||||
1956-01 | 読売新聞 | 読売新聞社 | 世界の建物むかしといま | インタヴュー記事 | ||
1956-04 | 婦人公論 | 中央公論社 | 世界のアルバム 地上の楽園モナコ王国 |
撮影 芦原義信(建築家) |
さきごろハリウッドの女優グレイス・ケリーと大公レイニエ三世との婚約発表で話題を提供しているモナコ王国は、南ヨーロッパの小国で、コート・ダジュール(碧空海岸)と呼ばれる南仏の海岸つづきにある。 | |
1956-07 | 建築士 | 建築士会 | 座談会 横浜の商店街(馬車道、伊勢崎町)と商店建築について |
森田茂介(法政大学教授) 芦原義信(法政大学講師) 足立一郎(関東学院大学教授) 郡菊雄(郡菊雄建築設計事務所所長) 武基雄(早稲田大学助教授) 内藤亮一(横浜市建築局長) |
森田 以前「建築士」の編集会のとき内藤さんが、商店街について、小さい間口の店舗がテンデンバラバラに建つているのも感心しないし、又沼津の復興建築のように全部統一してしまうのも商店街としては何か面白くない気がする。商店街としての全体的な雰囲気をもち、しかも個々の商店の個性も生かした商店街、商店建築のあり方はどうあるべきなのか | |
1956-07 | 工芸ニュース | 丸善 | マルセル・ブロイヤーの近況 | 芦原義信 | マルセル・ブロイヤーというと、例のパイプチェアーやいくつかの住宅を思いおこす方が多いと思う。彼の各方面における最近の活躍はめざましいものがあるが、ただ断片的にしか紹介されていないので、この機会に順を追って述べたいと思う。 | |
1956-03 | 大阪の工芸 | 大阪工芸協会 | 海外の生活と工芸事情 | 芦原義信 | 日本伝統の建築が、いかに海外において賞讃されているか、ということについて先般大阪でお話したことがあります。本日は海外の工芸事情について話すようにということですが、工芸と建築とは深い関連をもっておりますので、お引受けした次第です。 | |
1956-09 | 婦人公論 | 中央公論社 | 世界のアルバム ニューヨークの憂鬱 |
撮影 芦原義信(建築家) |
紐育の黄昏ほどやるせない時はあるまい。百二階もあるエンパイヤー・ステート・ビルの灯が一つ消え二つ消えるころ、家路をいそぐサラリーマンの群はひしめきあいながら地下鉄の入口にすいこまれていく。 | |
1956-11 | リビングデザイン | 美術出版社 | 書評 奈良をめぐる−−空から−− |
芦原義信 | 「奈良をめぐる−空から−」というこの本の表題をみたとたん、今までの紀行文や案内書と全然おもむきを異にした目下はやりの「新しい視点」が盛り込まれてはしないかという魅力を感じて、私のような奈良とは縁のうすい者が一文を草することを引き受けた。 | |
1957 39歳 | ||||||
1957-00 | 対立と調和 ブロイヤー建築論 |
訳編:芦原義信 | 著書「対立と調和」 | |||
1957-03 | 新建築 | 新建築社 | Chu-0-koron Building | 記事 | 中央公論ビル | |
1957-03 | 新建築 | 新建築社 | 投影 | 記事 | ”数の子にアスパラカスにご飯”−−中央公論ビルのグリルで面会の折のこと、ウエイトレスの方が面食っている。庶民性とはまた違った、一種さばさばした坊ちゃん気質だ。 | 中央公論ビル |
1957-03 | 新建築 | 新建築社 | 中央公論ビルディング | 機能の分析によってそれに対応する立体的な空間構成を試みた一連のわれわれの作品で、1階床の高さをG.L.より7.4尺あげることによって前面道路との接触がはぼ2倍の長さになったため、正面ではプレキャストブロックをとおして地下食堂に自然光を与え、背面ではガレージ、書籍用リフト、石炭投入口などをとることができた。 | 中央公論ビル | |
1957-03 | Zodiac3 | Modern Japanese Architecture Confronts Functionalism | 記事 | |||
1957-06 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 正しい都市計画 | 芦原義信 | 東京のような大都会では、朝夕の流動がものすごく混雑します。みなが生活するために働かなくてはならないのは、あたりまえのことですが、はたらく場所についたときにはもうへとへとにくたびれるというのでは、とても仕事の能率があがりません。 | |
1957-07 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 表彰作品 中央公論ビルについて | 芦原義信 | 今回はからずも私共の設計いたしました中央公論ビルに対し、栄誉ある学会賞を授与されましたことはこの上もない光栄と喜びであります。 ふりかえって考えてみますと、早いもので我々も学校を卒業し18年になんなんとしています。終戦後、あの焼野原に復員したとき、たまたま東京の復興計画の懸賞があり、応募した私の拙たない案が選外佳作となるというようなささやかなきっかけから、設計の道に入ることを決意いたしました。 |
中央公論ビル |
1957-07 | サン写真新聞 | 西洋建築へ日本の障子 米国で人気 静かなふん囲気がよい |
インタビュー記事 | 直線的な美しさを買われて、このところ日本の障子は、アメリカ建築にドシドシ取り入れられているという。このことについて、建築家の芦原義信氏は次のように語っている。 | ||
1957-10 | 別冊 みづゑ | 絵画と建築の協力について 8つのテーマによる討議 |
岡本太郎(画家) 芦原義信(建築家) 神代雄一郎(建築評論家) |
中央公論ビル | ||
1957-11 | 国際建築 | 美術出版社 | 中央公論ビルディング・東京京橋 | 中央公論ビル | ||
1957-12 | 建築文化 | 彰国社 | 横浜レディースセンターの設計について ”流動コアー”と”伸縮フェーシング”の試み |
芦原 | 都市の中に近隣の建築と無関係に単一の建築を建設することがいかに無意味であるかを自覚しながらも、現実は、多くの建築家に土地の細分化からくる無秩序のシティー・スケーブを創りだすことを強いている。 | 岩崎学園横浜 レデイスセンター |
1958 40歳 | ||||||
1958-01 | 中央公論 | 中央公論社 | 座談会 より住みよい都市を |
武山道雄(東京大学教授) 芦原英了(評論家) 浜口隆一(建築評論家) 浅田孝(都市計画家) 芦原義信(建築家) |
世界一の都、東京は世界一汚い都。美しい住みよい街にするためには何から始めよう? 芦原英了 最近、東京はニューヨークを追いこして世界一の人口を持つ都市になったわけですが、私たち東京に住む者は、この街にある混乱や無秩序を日ましに深く感じます。 |
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1958-02-09 | 週間女性 | 今度の日曜日 東京改造で頭いっぱい |
芦原義信(建築家) | ソファーにねころんで、あかりは間接照明でやわらかく。暖房は常温六十度。聞くともなし聞かぬでもなしのムードミュージックをかけっぱなし。これで本を読むのが最大の楽しみです。 | ||
1958-03 | 建築文化 | 彰国社 | 打放しコンクリートの問題点 | 芦原義信 | 打放しコンクリートは幾多の利点と同時に、幾多の欠点をもっているために、ある人たちには圧倒的に好まれ、ある人たちには敬遠され、またある人たちには徹底的に嫌われる。だが、最近の傾向として、打放しコンクリートによる作品のなかに問題作となるもが多いのはなぜであろうか。それは主として建築における表現の問題と関連がある。 | |
1958-04 | 建築と社会 | 日本建築協会 | 書評 「対立と調和」 |
岡橋作太郎(日建設計工務KK) | 古ぼけたアパートの12階。ドアーだけが近代的に朱色に塗られて、MARCEL BREUERとホワイトブロンズの文字が小さく浮び上がっている。この紐育のブロヤー事務所に一年を過した芦原義信氏によってこの本は編まれた。 | 著書「対立と調和」 |
1958-05 | 建築雑誌 | 日本建築学会 | 色彩雑感 建築にグリーンを使ってはならない |
芦原義信(建築設計研究所長) | ・・・ここですごした一年間に彼は教える、曰く、「建築にグリーンを使つてはならない。自然の美しい緑に匹敵する塗料はないし、若しどうしてもグリーンを使う必要があつたら樹木や草花を建築の中へ持ち込みなさい」 | |
1958-05 | 朝日新聞ジュニア版 | 朝日新聞社 | ぞくぞく建つガラス建築 | インタビュー記事 | ||
1958-08 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 小笠原流ビルディング版 | インタビュー記事 | ||
1958-08-24 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 女性のかわらばん 「おしめ配達業」涙異聞 |
飲食向けの”おしぼり”配達業が今夏から東京などにお目見えしたが、これに刺激されて、やがて日本でも”おしめ”の配達業が盛んになるだろう・・・と米国帰りのある建築家は予言している。 | ||
1958-09 | 建築文化 | 彰国社 | 住まいにおける空間の把握 | 芦原義信 | 住いにおける空間の把握という題を編集部からあたえられたとき、できそうな気がして気軽くひきうけた。さて、締切りの時間が刻刻と迫ってくると、不思議な焦躁感におそわれ、容易ならぬ難問題をひきうけたことがわかってきた。それというのも、空間とは書くものでなく、その中に住んだり、建築家としてはそれを創造したりするものである。 | |
1958-09 | 婦人公論 | 中央公論社 | 主婦不在の都市計画 | 芦原義信 | 女性は家の番人か 何%の女性が、家にしばられないで社会生活を楽しむことができるだろうか? 無計画に膨脹してゆく大都市に、若き建築家の憤りをぶちまける。 |
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1958-09-08 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 女性のかわらばん 外交折衝の成否は衣類にあり |
米国で開く外交折衝や商談に日本の代表が出席すると、夏は割合成功するが、冬はとにかくゴテることが多く、どうやらその原因は着て行く衣料によるらしい・・・という新説がある。 | ||
1958-10 | 婦人公論 | 中央公論社 | 芦原義信氏に共鳴して | 坂本昌子 | 「主婦不在の都市計画」を読んで嬉しくなりました。私の思っていることをあますことなくいって下さったからです。殊に「女性は家の番入か」は、切実に悩んでいる間題で主婦が自由に外出できるのでなければ、女性は解放されていないという私の持論と同じです。 | 「主婦不在の都市計画」 |
1958-11-15 | 読売新聞 | 読売新聞社 | 新しい建築用材と使い方 | インタビュー記事 | お正月をひかえて新、改、増築をしたいと希望している方のために、新しい建築用材の知識と用途を建築家・芦原義信さんと建材研究家の斎藤晄之さんにうかがってみました。 | |
1958-12-04 | 読売新聞 | 読売新聞社 | 工芸作家・建築家が選んだ グッドデザイン製品 |
記事 | 日本に古くからある工芸品と新しいデザインの中から坂倉準三、芦原義信、ミセス・レーモンドさんら工芸作家や建築家が選んだグッドデザインです。大量生産による一般への普及と輸出を目的にしたものだけに、品質もよく値段も安くなっています。 | |
1958-12-15 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | 「個室」をもたぬ暮らしの作法 | インタビュー記事 | 紙と木と竹と土で出来たソフトな日本住宅なら、壁に耳、障子に目もあけやすかろうが、鉄筋コンクリート造りの壁の厚いアパート、オフィス、ホテルなどにも案外新しい"ぬけ穴"があるようだ。おまけに、多くの庶民往宅には大人にもこどもにも、ほとんど“個室“がない。 | |
1959 41歳 | ||||||
1959-02-25 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞社 | けんちく・トピック 文学や映画と建築家 |
芦原義信(日本建築学会PR事業委員会委員 芦原義信建築設計研究所長) | 最近、建築家の社会的地位はとみに向上したように見える。これは多分に文学や映画に負うところ大であるらしい。 | |
1959-03 | 朝日新聞 | 朝日新聞社 | 都市計画ということ 「ブラジル近代建築展」をみて |
芦原義信(建築家) | 国立近代美術館の「ブラジリアの近代建築展」を見て、東京のようにただ無秩序にふくれあがった大都会に住む私は、ブラジルの新都市ブラジリアの建設が着々と進んでいるのを知り息の詰まる思いをした。 | |
1959-05 | 都市問題 | 東京市政調査会 | 都市計画の転期 三次元的都市の建設について |
芦原義信(芦原義信建築設計研究所長・法政大学講師) | 東京のように大震災や大戦災をうけて二度も廃墟になった都市が、今日のような混乱の形に再建されたのは、わが国の都甫計画の方法に根本的誤謬があつたのか、あるいは都市計画という考え方自身が欠除していたのかどちらかであつたと思われる。 | |
1959-06 | 毎日新聞 | 毎日新聞社 | 都市美 | 芦原義信(法大教授・建築家) | オリンピックが来るからといって、急に都市美に付いてさわぐのは、オリンピックが来なければ都市美なんかどうでもよいみたいにきこえてちょっとおかしな話だが、さてその都市美とは、一体なにをさすのか考えてみるのも興味ふかい。 | |
1959-10 | 建築文化 | 彰国社 | ユース・ホステルの計画 | 守屋秀夫 | 日本では初めての専用ホステルであり、外国の事情についてもほとんど資料を集める余裕がなかったので、いろいろと解らぬことが多く、ホステラーの生活や感情など、勝手に想像した点も多い。こんな状態の設計ではあったが、これはこれなりに、いくつかの問題に行き当った。以下特に気のついた2、3の点について記しておく。 | 日光ユースホステル |
1959-11 | L'Architecture d' Aujoure'hui | HOTEL A NIKKO JAPON | 記事 | 日光ユースホステル | ||
1959-12 | 読売新聞 | 読売新聞社 | これからのホテル建築 個性否定の中の新しい個性 |
川添登 | 来年は、世界デザイン会議をはじめ十一の国際会議が東京で開かれ、これを含めて二十万に近い観光客が訪れるという。これを目当てに、いま東京ではいくつかのホテルが新増築され、ちょっとしたホテル・ブームの感を呈している。 | 日本航空ホテル |