イタリア南部 中世の趣きが色濃く残る小さな町の床屋さんとの交遊録
芦原初子

1971年、芦原がギリシャでのデロス会議の帰りにイタリアに寄り、プーリア地方の古い街並みを見学した時のこと。友人の建築家、トマソ・ヴァレ氏が車であちこち案内してくれて、是非見せたい町があるといって連れていかれたのがチステルニーノ。その頃、近くにあるアルベロベロは日本でも有名でしたが、チステルニーノは聞いたことのない町で、中央のこぢんまりとしているが魅力的な広場を見ていると、本をかかえた小太りのおじさんが出てきて、“建築家か?”と聞いた。“Stone Shelters”というその本はアメリカの建築家、Edward Allenがこの町にしばらく滞在して書いたもので、本に出てくる写真は自分が案内して撮ったものだという。それが、広場に面した“サロン”と看板のある床屋さん、ニコラ・グレコ氏との出会です。

その後、日本人が来ると必ず出てきて、“芦原を知っているか?”と聞くが、訪問者は芦原の書いたものを読んで訪れる建築関係の人ばかりで、皆よく知っているというので、グレコ氏は得意だったようでした。

また、女優の高峰三枝子さんがイタリア旅行のテレビ番組で、どこに行ったらよいかを聞いてきたのでグレコ氏を紹介しました。出来上がった番組には二人で並んでうれしそうに映っていました。

1973年の正月に芦原一家で訪問して、町のレストランでご馳走になって以来会うこともなかったが、その後癌で亡くなってしまいました。 日伊親善につくしてくれたグレコ氏をたたえる賞状をつくって息子さんに送りましたが、きっと今でも床屋さんの壁に飾ってあるのではないかと思います。


























ニコラ・グレコからの手紙(その1)
1974年12月13日

クリスマスも近づいてきましたので、久しぶりにあなたのご様子を伺いたくてお手紙をさしあげます。ぜひ今度の夏にはご家族と一緒にチステルニーノを訪れてくださいますよう、再度お誘いいたします。

どうぞご家族お揃いで良いクリスマスと幸多き新年をお迎えください。






ニコラ・グレコからの手紙(その2)
1975年2月11日

あなたにこんなことをお願いしたくないのですが、息子にどうしてもと頼まれました。

息子は会計士の勉強をしているのですが、計算機がないので経理書類の作成に時間がかかります。私は計算機を買ってやることにしましたが、こういうことに詳しい友人達にイタリア製の計算機は日本製ほど良くないからやめろと言われました。

あなたはきっとこのようなことに詳しいでしょうから、日本製の良い計算機を買っていただけないでしょうか。送ってくださる時に代金を教えていただければ、銀行小切手でお支払いします。

あなたにご面倒をおかけして申し訳ありませんが、父親は息子のためにはどんなことでもするものです。



芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その1)
1975年2月28日

親しい友人のサルバトーレ・ダミアーニがちょうど日本に来ていて、昨日イタリアに帰ったので、最新の小型計算機を持たせました。どうぞ私からのプレゼントとして受け取ってください。







ニコラ・グレコからの手紙(その3)
1975年3月8日

3月6日に計算機を受け取りました。そして今日、まさにあなたに手紙を書こうとしているところにあなたの手紙が届きました。実の所、私は今まで友人にこのようなお願いをしたことはありませんでしたが、これも日本の技術の高さ故のことです。

あなたがこのようにタイミング良く計算機を届けてくださったことに驚愕しています。銀行小切手でお支払いするために、ぜひ次の手紙で金額をお知らせください。

息子のピエロのためではありましたが、あなたが私にしてくださったことは素晴らしいことで、感謝の言葉もみつかりません。暴力、憎しみ、偽善が蔓延する世の中で、あなたのような立派な方と出会えて幸せです。

この夏はぜひご家族とチステルニーノにおいでください。



ニコラ・グレコからの手紙(その4)
1975年3月24日

息子はあなたのプレゼントに大喜びです。あなたの行いは実に気高いものではありますが、私としては金額を教えていただけた方がうれしいということをご理解ください。

よろしければご家族と共にチステルニーノで次のバカンスをお過ごしになるよう、ご招待申し上げたいと思います。

あなたとご家族に復活祭のご挨拶を送ります。




ニコラ・グレコからの手紙(その5)
1975年3月27日

良いことがあったのでお手紙差し上げます。あなたの教え子の陣内秀信さんが、マルティナ・フランカの建築に関する会議に出席した後に、チステルニーノに現れました。

私はいつものように全力を尽くして、この若者がチステルニーノの旧市街をくまなく見学できるように取り計らいました。私があなたと親しく、あなたがご家族と共に最近チステルニーノにおいでになったことを話すと、彼は世界は何と小さいことかと驚き喜んでいました。私もあなたの理論を彼と共有することができました。

彼から頼まれたあなた宛の手紙を同封します。



芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その2)
1975年4月11日

私の教え子の陣内君があなたに大変世話になったようですが、彼はとても優秀な学生なので、今後ともよろしくご助力ください。

最近日本の建築家たちは、一つの巨大な家のような美しい町、チステルニーノに興味を持ち始めました。次々と訪れる日本人に悩まされていらっしゃることでしょう。あなたの日伊文化交流への貢献に感謝しています。

計算機についてはどうぞ私から息子さんへのプレゼントとしてお受け取りください。

この夏はイタリアには行けませんが、また会う日までお元気で。



ニコラ・グレコからの手紙(その6)
1975年4月22日

夏には日本の学生たちがチステルニーノに来て自然発生的な町並みの研究をするというので、いつものようにできるだけのことをするつもりです。 再びチステルニーノに戻って来た陣内さんの手紙を同封します。

今年の夏においでになれなれないのは残念ですが、来年私の町で行われる自転車の国際レースの折にでも、あなたとの再会の願いが実現すると良いと思っています。




ニコラ・グレコからの手紙(その7)
1976年2月5日

美しい日本のカレンダーと、クリスマスと新年のご挨拶のカードをありがとうございました。あなたと共に過ごした素晴らしい思い出がよみがえってうれしかったです。ぜひ今度の夏にまたチステルニーノをお訪ねください。

去年の夏には大勢の日本人学生の世話をしましたが、彼等はあなたがチステルニーノに来たことがあることを知って驚いていました。

あなたが9月初めには日本のテレビで、オストゥーニ=チステルニーノ間の国際自転車レースをご覧になれるかもしれないと、今から期待しています。



ニコラ・グレコからの手紙(その8)[手書き]
1976年12月16日

久しぶりにあなたに手紙を書くことができてとてもうれしく思います。これまで何があったかをお話しますと、しばらく前から胃潰瘍を患い、7月2日にバーリの病院に入院して8月25日に手術をしました。検査で腸の狭窄も見つかったので潰瘍と同時に腸も切除し、9月7日に退院しました。現在は家で静養中ですが、天気の良い日には散歩もできるようになりました。

その間、既にお聞き及びかもしれませんが、あなたの教え子の陣内秀信さんを自宅にお呼びして、二人であなたの話に花を咲かせました。来年の夏にはすっかり元気になって、あなたとご家族をチステルニーノにお招きできると思います。

9月5日のオストゥーニ=チステルニーノ間の自転車レースをテレビでご覧になりましたか。このレースが世界に中継され、我が町の美しさに対する評価が更に高まったことでしょう。

間もなくクリスマスです。どうぞ良いクリスマスと幸多き新年をお迎えください。



芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その3)
1977年1月12日

陣内君があなたの写真を見せてくれましたが、お年を召したようで心配しています。お手紙に病気をしているとありましたので、早く良くなって仕事に復帰なさることを祈っています。

いつになるか分かりませんが、再びイタリア、特にあなたがお住まいの地域を訪ねたいと思います。 別便で日本のカレンダーを送ります。お気に召すと良いのですが。




息子のピエロからニコラ・グレコの死を知らせる手紙と写真
(日付なし)

父ニコラの早すぎた死についてはご存知だと思いますが、8月30日には母が亡くなり、あっという間に私一人が残されました。まだ職につけず、苦しい状況です。最近はイタリアで職を見つけるのはとても難しいのです。

父の最後の写真を同封します。父のことを良い思い出として持ち続けてくださることと信じます。

あなたとご家族に、

MERRY CHRISTMAS and HAPPY NEW YEAR



ニコラ・グレコ肖像
芦原建築設計研究所の所長室に飾られていた
ニコラ・グレコとの思い出の写真
Stone Shelters
ニコラ・グレコからの手紙(その1)
ニコラ・グレコからの手紙(その2)
芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その1)
ニコラ・グレコからの手紙(その3)
ニコラ・グレコからの手紙(その4)
ニコラ・グレコからの手紙(その5)
芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その2)
ニコラ・グレコからの手紙(その6)
ニコラ・グレコからの手紙(その7)
ニコラ・グレコからの手紙(その8)
芦原義信からニコラ・グレコへの手紙(その3)
息子ピエロからグレコの死去を知らせる手紙