東大最終講義
芦原義信  東大最終講義
第6章 国際交流について
 それから次に、海外での大学で教えた経験について一言二言しゃべらしていただきたいと思うのですが、まず最初に、オーストラリアのニュー・サウス・ウェルズ大学――シドニーにありますが――、これは国立大学でありまして、東大なんかと違いまして、入りたい人は全部入れる。そして卒業するときは10人ぐらいに減ります。私は5年生で13人ほどいるクラスを教えてくれということでありました。とにかく学生を退学させたり落とすということは容易でないので、先生は本当に真剣であります。というのは、1年のときは800人ぐらい。2年になると半分もいない。どんどん、どんどんふるい落とされて、最後になると、10人ぐらいになるわけですが、その間にどんどん落ちていくわけで、日本のように最初から受験勉強で落とされるのでなくて、途中で落とされる。いったん落とされるともう大学へ2度と行かれないというので、非常に大変なんでありますから、大議論になるんですね。君はこういう点で悪い。こういう点も悪い。全部調べておかないと、先生もなかなか容易でないわけであります。
  そこへ呼ばれて行ってびっくりしたのですが、最初の日に、まず食堂へ連れて行かれました。その食堂が一段高いテーブルで、バックの高い椅子に座らされました。先生がずうっと並ぶと、そこへ学生がスーッと入場してきて、食べよ、というようなことを何かいうと、みんなが食べだすような感じでありまして、ここで毎日羊でも食べさせられたのではとても大変だし、外へ出たほうがいいんじゃないかということでありました。びっくりしたのは建築学部、これにはディーンが一人いまして、それからプロフエッサーが一人、それから助教授が一人、あとはシニヤー・レクチャラー、レクチャラー、インストラクター、いろんな人で80人近くのティーチング・スタッフがいました。私はビジティング・プロフエッサーで行きましたので、ナンバー3です。ディーン、プロフエッサー、ビジテイング.プロフエッサー、アソシエート・プロフエッサー、アシスタントとなり、非常に偉いということがわかったんです。たとえぼ、ウッツォンのシドニーのオペラハウスを見学したいというと、帽子をかぶった運転手つきのキャデラックが来ましてね、ニュー・サウス・ウェルズの建設担当ミニスターが出迎えてくれて案内する。これは大変なところへ来たな、ということでありました。そして、イギリス風でありますから、バイス・チャンセラーというのが総長みたいで――チャンセラーというのは総理とか、だいたいそういう感じの人がなっております――、バイス・チャンセラーなんてのが挨拶したり、大変な歓待でありました。
  なんで日本の建築家である私をこんなにしたのかなと思って、いろいろ聞いてみますとわかったんですが、オーストラリアにも、そりゃハリー・サイドラーだとか、ジョンソンだとか、実際やっている方で大学で教えている人もいますが、いまいいましたように、どんどん落第させるためには先生が全くフルタイムで仕事につかないとできない。そんなことで、シドニーあたりで建築の設計をしながらチョイチョイと行くというようなことは、とうていできない雰囲気です。もう本当にフルタイムで働かなければならない。そうしますと、オーストラリアの人もハーバードヘ行けば電話もかかってこないから、ハリー・サイドラーなんかも行けますが、オーストラリアにいる限りは、なかなか、そう全く縁を切るということもできない。そうすると、私なんかもオーストラリアヘ行けば全く用はない。もうフルタイムに学校のことをやる以外に何もやることがない。電話も掛かってこないということになると、一生懸命にやるというようなことで、やっぱり外来の人を連れてくるということがある。しかも、オーストラリアのディーンも、プロフエッサーも、建築の設計をやったことがないということで、なんとなく私に遠慮をしてくれました。そういうことで非常に面白い経験をしました。
  今度はハワイ大学で、ビジティング・プロフエッサーで来ないかというのでまいりました。これまた驚きました。先生だか学生だかさっぱりわからない。オーストラリアのブリティッシュなのと違って、ことにハワイ大学はキャンパスでみんなムウムウみたいなの着て、赤や青や黄色い服の女の人が右往左往して、そして、ハーイなんとか、ハーイなんとか、全く教授だかなんだかわからない雰囲気でありまして、しかも建築学科は、何か木造の、バンガロー風のものでありました。行ってみてびっくりしたのですが、英語使って教えるんだろうと思って行ってみたら、3分の1ぐらいが日本から来た日本語しかできない学生でありまして、なんだか、行っているうちに面倒くさくなっちゃってときどき泳いだりなんかしながらやってました。
  そんなことで、アメリカの大学はハワイ大学だけでありますが、アメリカの大学は昔から非常に厳しいカリキュラムを持ってやっておられまして、いまの雰囲気はちょっと違う雰囲気でありますが、普通教職につくということは容易でないということであります。最近は、年度の終わりにいろいろ学生の投票みたいなものがある学校もあるようであります。投票って、もちろん人気投票とかそういうものでなくて、どういう教え方をするかとか、非常に細かく分析するようでありますが、それによって適否を決めて、首になるということもあるやに聞いております。なかなか容易でないポジションのようであります。
  そんなことで、この間MITについて工学部ニュースでちょっと触れましたけども、テニュアーという一生保証されているプロフエッサーになるということは非常に容易でないのでありまして、よっぽどの業績がないとまあワン・イヤー・アポイントメント、あるいはうまくいってスリー・イヤーズ、三年契約というようなことで、それでいつでも見直ししていくということでありまして、テニュアーになるということは容易でない。そしてもう一つ、たとえばMITでは、60歳から65歳の間に自由に定年退官できると。東大は60歳でないといけないということはないんでしょうが、いろいろな都合で工合が悪いようであります。それと、一年のうち半分だけ教えればいいこと。エドワード・ホールもいってましたけど、あとの半分は別荘に籠って、本を書くんだ、そうじゃなけりゃ僕なんか本を書けないよなんてことをいっておられて、半分は月給をもらわんそうでありますから、大学のほうも、2人いい先生を雇って、宝塚ではないんですけど春組、夏組、花組、・・・(笑い)。東大も、今度は雪組でいこうとか、今度は花組でいこうとかそういうふうになりましたら、日本の大学もずいぶん変わるんじゃないか。じゃあ花組のときに入ろうかなとか、もうちょっと待とうかなとか、いろんなこともできるんじゃないかなというふうにも思います。
  それから、もう少し人事も外国の大学のように流動的になるといいんじゃないかと思うのは、たとえば、非常に長い間教育にたずさわるということは容易でないと思います。私は、教育にたずさわったのは日本では3つの大学で、だいたい8年ぐらいずつ。これは昔からセブン・イヤーズ・イッチといって、7年経つとなんかもぞもぞしてくるといいますが、ちょうど東大がいま8年10か月。むずむずということもありませんが、まあいいかと思いますが、海外の大学で2か所やってみましたが、30年以上も同じテンポで教育にたずさわるということは、僕は、非常に容易でないことと思います。そんなことで、東大も生産技術研究所だとか総合試験所だとかいろいろありますから、そんなもので3年間は一生懸命教える。その代わりあと3年間はそっちで研究だけやらしてもらう。そういうような時代も来たらいいと、よく冗談みたいにいっています。これはなかなかむずかしい問題だとは思いますけれども、そういうことも考えていい時代がそろそろ来ているんじゃないでしょうか。
  それと、やはり国際交流ということは非常に重要な問題だと思います。いまMITからもいろんなプロポーズが東大にあるようでありますし、他の大学と交流してもいいんじゃないかと。それから、村松さんの本によりますと、明治10年、ジョサイヤ・コンドル先生が初めてここへ来られて建築学の講義をされ、辰野金吾先生以下が皆英文で論文を書かれて、それにいろいろコメントを書いたのが、今まだ図書室にあるそうですが、明治10年頃の人、その人たちはみんな英語で書いた。だからかならずしもいま英語で書かなきゃいかんというのじゃないけど、やはり第2の国際化時代というか、アメリカの大学に日本人のプロフェッサーがいることは、ちっとも不思議でなくて、いくらでもあるんですけども、東大にも、もっとも適する人が、そのポジションにつくなんてことが、日本だけでなくて、国際的にありうる時代がくるんじゃないかという気がいたします。
  それともう一つ、最後に、学生諸君、皆さんにいい残したいと思うのですが、東大ほどいい大学はないというのが、――私は日本でも、外国でも大学で教えたことがあるのですが――、実感であります。なんか少しよすぎるんじゃないかというのも、実感であります。ですから、ここだけにいると何かいいような気がいたしますが、やはり世の中はどんどん進歩しておりまして、技術的にも、あるいは社会的にも、どんどん進歩している。明治10年の頃の大学と現在とは非常に違っているというような認識も、必要であろうと思います。そしてまた、日本ではポスト・テクノロジー時代に対する教育みたいのをやっていますが、この間中国に行ったり、この間またナイロビに行きましたけど、そこで大学の様子を聞いてみますと本当にテクノロジー時代でありまして、われわれのほうはどうやってコンクリートをこねるかというようなことでなくて、向こうは、どうやったらこねられるか、どうやったらということをみな教えているわけでありまして、とうてい日本の先生では教えられないような職人的なことを、中国でも、アフリカでもやっているわけであります。そういう現実でいくと、本当に向こうへ行って、海外へ出ていって指導したり、あるいは教えたりということになりますと、これは容易でないことであります。そんなことで、ときどきはチェンジ・オブ・ペースというか、外の空気も吸って、そして勉強したくなったときにはまた戻ってきて、こういういい大学で勉強するということは、非常にいいんじゃないか。それが私のいっていたリターン組というか、大学院にすぐ入らないで、外へ行って、そして3年なり4年なりして戻ってきて、そしてエンジンがかかって、パッとやるというのがいいんじゃないかということであります。それが最近だんだん実現されまして、またそういった方が再び世の中に帰っていくという場合に、そういうのがいいといって賛成して採ってくださる方が、きょうもご出席の林さんなんか、そういうのはいいじゃないかといって、採ってくださるということで、交流ができていいことじゃないかということを、つくづく感じる次第であります。
  それから、このたった8年10か月でありまして、本当に何も教えることもできず、ただ一つあるとすれば、みんな若い人たちを励ましたり、一緒にとにかくやろうじゃないかという、そういった幾分精神的なことぐらいしかできなかったわけでありますが、この8年の間に非常に優秀な学生諸君が集まってくれまして、私は非常に幸福な感じが、今しているわけです。この人たちの中から建築の理論家や建築哲学、あるいはフィロソフィー、あるいはベーシック・プリンシプルというものについて通暁する世界的な人たちや、あるいは設計が非常にうまい、偉大なる建築家が現れてくるんじゃないか。東大設計黄金時代がきっと来るんじゃないかという気がいたします。これは、国家的にみていいことかどうかはよく知りませんけど、とにかく東大を出て設計なんかやることないという考え方もあるかもしれませんけど、だけれども現実として、本当に諸君の中から、かならずや世界の中で、コルビュジェよりも、まあ、ベンチューリなんてみんな一生懸命読みますけど、あまり設計がうまくないから、こんなのより遥かにうまい、しかも理論ができるというような人がかならず出てくるんじゃないか。やはり、理論がいるわけですから、大学で一生懸命理論を勉強して、そして力を蓄えて、ワーッと出ていくこと。まず体さえ丈夫であって、さっきいったいくつかのこと、そんなことをやっていけば、私の目の黒いうちかどうか知りませんけど、かならずこの中から世界に雄飛してやる方が出てくるという確信のもとに、私はいま、非常にああよかったなあ、うれしいなあという気持ちで、この東大を出るわけであります。どうも本当に8年問、いろいろ楽しい思い出ばかりで、ありがとうございました。どうか、あと頑張ってやってください。(拍手)

小山
  鈴木先生からの紹介にありましたけれど、芦原先生、ここで9年間教えてくださって、在校します間に、直接手を執って指導していただいた学部に学生の数は、500人を越えております。またそのうちで、芦原先生を中心としました講座で、卒業論文を書いた学生は、114人というふうに大変な数に上がっております。またそのうちで、大学院に属しました方は、ちょうど40名になります。その中には、もちろん東大から来た学生もたくさんおりますけれど、芸術大学や早稲田とか日本の他の大学、さらには、たくさんの外国からの学生が参っておりまして、その数は11名になっております。その学生はアメリカはもちろん、アフリカとかヨーロッパの諸国、それから、アジアからも沢山来ております。そういったインターナショナルな教育と研究の環境が、芦原先生が直接下さった沢山のいいものの中の一つであるとおもっておりまして、今日もそういう沢山の学生から、先生にぜひ感謝の気持ちを込めて、花束を差し上げたいという申し出がありました。ぜひ、受け取って頂きたいとおもいます。代表で贈っていただきますのは。ユーゴスラビアから来ておられまして、今度修士を卒業なさるメリタ・ラチキさんです。みなさま、芦原先生の今後のご活躍とご健康を祈って、盛大な拍手をお願いいたします。(拍手)