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東大の教え子達と |
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芦原義信 東大最終講義
第5章 よい設計を手掛ける方法
一つは、コンペがあります。コンペに入ること。これは若い人の登竜門でありまして、これによって正々堂々と仕事をやる。これは非常にいいことだろうと思います。ただコンペがあまりないんで、腕がむずむずしてもなかなかいかないと思います。
次には、恩人というか、私の場合はさっきいった栗本さんとか、内藤さんとか、全く当時34歳ぐらいの、ヒョロヒョロッとした、あまり栄養のよくないような男に、いま考えてみるとよく頼んだなと思うんでありますが、そういった、何かこう不思議な恩人みたいな人、そういった人がいるといいんじゃないかと思います。これは、ものの縁でありますから、自分のほうだけで決めててもいけない。ただいえることは、建築家は何かやりたいといって仕事を探しているといいますが、それも真理でありましょうが、建物を建てたい人も、同時に誰か真剣になってやってくれる人がいないかと探している。これは全く男女の仲のようなものでありまして、男だけが探すんじゃなくて両方が探しているのだということは真理だろうと思います。ときどきそういう恩人みたいな人がいて、君、やったらどうだと、こういうわけであります。
それともう一つ問題は、やったことがないとき、君、何やったの?と聞かれるのは一番困るのですね。これをなんとかうまくいう方法はないかということであります。これは、そろそろわれわれもいろんなのをやって、聞いてもらってもおかしくないというと聞かないんですね。それで、聞かれると困るなというと顔に出るのか、君、これやったことあるかと。それが実に困る。なんとかならないかなということでありまして、それがさっきの、いや、やったことありません。あ、そうか、君、なかなかはっきりしてるなと。そういうこともあるわけであります。
それともう1つは、たとえば私の場合は、アメリカから帰ってきて、向こうではストラクチュアル・エンジニア、あるいはメカニカル・エンジニア、アーキテクトというような三本立てでやっておられるというようなことで、考えまして、同級生であります織本匠君、それから機械を出た犬塚恵三君、そういった人たち、構造と設備と、それを一緒のビルでやる。これが非常に重要なことであります。離ればなれの構造事務所に頼むと、なんとなく組織力が弱いような感じがする。実際は同じなんですけど、ビルが同じというようなことは、一つの力になる。それが、他の設計の方が遠くのほうの構造事務所に頼むと、なんとなくプライオリティがないが、われわれの場合は同じところにいるから、非常にこっちだけのことを一見やっているような雰囲気があって、何か非常に構造、設備、建築、そういったものが総合的にできるんじゃないかという、錯覚を起こしうるということがあります。
それと当時、私はハーバードから帰ってきたとき、ハーバードの組織は非常にいいと思った。それは、グラデュエイト・スクール・オブ・デザインという中に、アーキテクチュアと、ランドスケープ・アーキテクチュアとシティ・プランニングというのがありまして、いわゆる計画学部、建築学部のようになってました。日本は、構造、設備、一切が一緒に教育されるので、だから都市環境が悪くなるんだというようなことを考えていたんでありますが、最近はむしろ逆でありまして、日本のようなのがいいと思うようになりました。一緒にいるということは、少なくともストラクチュアル・エンジニアとは、同じ釜の飯を食べてる。まあ君、同級じゃないのとか、今度は建設会社の人もいるわけ。君とは同級だとか、先輩だ、後輩だ、いろんなことがありますが、アメリカや他の国に行きますと、少なくとも建設会社に行ってる人だとか、ストラクチュアル・エンジニアと同級生なんてことは、小学校か中学校ではありましょうが、大学ではありえないということであります。そういうようなことで、わが国のような人的なつながりが必要な国では、ハーバードのような組織より、この日本の現在の組織というのは非常にうまいわけであります。きょうは、都市工学科の方もおるのかおらないのかよく知りませんが、都市工と建築科が分かれたというのも、いまになって考えてみるとどんなものかという感じがします。これも建築のほうが伝統があって古いわけでありまして、こっちにいてくれたほうがもっとよかったんじゃないかと思うほどです。なんでも分ければいいということは、わが国の場合においてはどうかなあと考えるわけであります。
それともう一つは、やはり夢とロマンみたいなものを、何か輝く夢みたいな印象が、なにかやりたいという印象が――これは印象だけじゃなくて、本当にそう思っていないと駄目だと思いますが――その人に頼むと、何か陰気くさいとか、何か駄目になりそうだというような人には、決して頼まない。この入に頼めば、なんとかよく上向きになるんじゃないかというような感じが、少なくともフアーッと出てなければ駄目だということであります。これに関しては、皆さん自身いろいろ研究していただく、何も私はうまくいったとか、そういう意味でいってるわけではありませんで、先輩として、自分でできなかったこと、そういったことにつきまして感想を述べているわけであります。
それで、そんなことやっているうちにだんだん実績もできてきて、そろそろ聞かれてもいいなあというふうに最近思いますと、誰も聞いてくれないということでありまして、まあ残念・・・(笑い)。でもないのですけど、幸いだと思ってるわけであります。
次に、コンペのことについて、一言お話したいと思います。コンペは、何回か審査員をやりました。それから、応募したこともあります。最初が、戦後本当に苦しいときに、床にはいつくばって描いた東京都復興の図面、――こんなことで設計の道を選んじゃったと思いますが――その後、事務所で挙げてやってみようといってやったのは、京都の国際会議場。これは、大谷先生が最優秀賞というので実現されましたが、われわれと、大高君と菊竹君だったかが、優秀賞ということで入賞いたしました。そのときの実感として、わあ、これは大変だ、もう二度とこういうことをやれないやと。そのあと非常に経済的に苦しくなりまして、負担になりました。まあ入ればいいですけど、入って京都へ行くかあなんてみんなでいってたんですけれど、それもついに夢となって駄目でしたけれども、大谷先生の計画もなかなかいい計画ででき上がりました。それから最近は、いよいよもう定年にもなるし、還暦にもなるし、一つやってみるかというので、イランのコンペをやってみました。不幸にも落っこっちゃったのですが、いまになって考えてみると、これで入っていると、いま頃またどぎどき心配したりしなけりゃならない。これも落ちてよかったかなあというふうに思ったりしております。
それと今度は審査員のほうですが、審査員も、国際コンペの審査員もいくつかやりました。これの経験を皆さんの参考のために申し述べたいと思います。
一番最初にやったのがアフリカのタンザニアで、国会議事堂を建てようということでタンザニア政府に頼まれまして、審査員で行きました。アフリカというのは、ヨーロッパ・アレルギーがありまして、ヨーロッパのうちでも北欧、東欧か、あるいは日本というのが非常に好意を寄せられているわけです。北欧からノルウェーの審査員、東欧からはユーゴの審査員、それから私と、それからUIAという国際機関の推薦でブルガリアの建築家と、4名で審査に当たりました。これは、私が審査員になるというようなことを、誰かが雑誌かなんかに書いてくださったせいだったか、とにかく日本から200点近く来て、たしか3つに1つは日本のだったというぐらいに日本のが来て、ちょっとうれしいような、日本は大変な国だなというから、いや、ちょっといま不景気なんでみんなやってるんだ。そうするとまた東欧の人はびっくりするのですね。不景気だったらコンペがやれるの? 不景気だったら何もやれないのと違うかというから、そこがちょっと違うんだということをいったわけであります。そのときつくづく思ったのですが、コンペの図面というのは、やはり、数メートル離れたところでこう見る。だいたい図面の大きさで、さっきのD/Hということを考えて、目の高さがどれぐらいのところにあるかとか、模型はどういうようなところで見るかというようなことを考える。そうすると、400点も500点もある中で、なんとなく群鳥の中にフアッと白鳥がいるがごときものが、見てるうちに10羽ぐらい出てくるということになり、その中に入ってないと入選はなかなかむずかしいということであります。ですから、よく見てみるといいことが書いてあっても――5点か6点の指名コンペは別でありますが――オープン・コンペの場合は、何かサーッと、さっきの夢とロマンじゃないけれど、何か光輝くようなものがないと、なかなかむずかしいということであります。それと、やはりD/H、少し離れて、ときどき図面を壁に張ってはこうやって、いいなあ、これならいけるなあというようなことが、非常に必要であるということ。それから説明書やなんかも、国によっては開けるとフーッとなんとないにおいなんかしまして、何か一生懸命タイプなんか打ったり、消したり書いたり、消しゴムのかすが入っていたり、なんとも異様な、ここへ頼んで、本当にできるのかなあと、そんな感じもありまして、審査員もいろいろ迷うわけでありますが、やっぱりこう、一人だけ目立つような人がいますが、少なくともそんなことになるとよいのですが、そのときに入ったのが黒川紀章君の案でした、これは、なんだか最初からシューッとしてましてね、みんなこれアメリカだろうっていってたんです。私もアメリカかなあと思って開けたら、それは日本だった。やはりいま、アメリカか、日本かなんて、みんな審査員はいいます。日本の技術に対する評価は非常に高く、アメリカと日本だけがなんかこういいらしく、みんな思っているようであります。
次にアブダビで二回ほどやりました。これは、カイロ大学の教授とバグダード大学の教授と、私と。私に委員長になれというので委員長を二回ほどやりました。それから国内では、学会だのいろんなのやりましたが、これは割愛させていただきます。いまいったように、コンペというのは、なんかフアッと見えるようなことを、ぜひやってくださると入ります。もちろん実力がなければ駄目ですけど、実力の前にやっぱりそういうことも大切であるということがいえると思います。
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