東大芦原研究室にて
芦原義信  東大最終講義
第4章 私の経歴
 私は、昭和15年に東大に入学したわけでありますが、そのとき、戦争が近くなっておりまして、大学の服の金ボタンが間に合わなくて、和服を着ていったわけであります。そのときの同級生が、この問亡くなられた池辺先生でありまして、アイウエオ順で芦原、池辺ってんで、席がわりと近く、入った日に早速議論になりました。彼は、大学に入る前から建築に行きたくて勉強しておりました。私はなんかのはずみで建築に入りました(笑い)。いきなり和風、洋風ってんで大議論になりまして、これは、おかしな人だな、畳が敷いてあれば和風じゃないのということで、大分議論しました。彼はあとで、私が和服を着てるいから、右翼じゃないかと思ったそうであります。これは、この間お通夜で聞いた話でありまして、極めて新しい情報であります。そして、さっき鈴木先生もいわれましたように、だんだん戦争の気配も強くなってまいりまして、2年半で卒業ということで卒論と卒業計画と、両方大急ぎでやるということになりました。私は、構造というようなことは一生やることがないだろうと考えたので、武藤先生のもとで、"塑性領域におけるラーメンの研究"というのを、食べるラーメンでなく本当のラーメンです(笑い)。来る日も来る日も、撓角法によるラーメンの解析をやっておりました。これがまさか今日の超高層理論につながるとは、そのときは全く夢にも考えなかったわけであります。そして卒業すると同時に、もう戦争になっておりまして、皆一緒に、海軍なり、陸軍なりに入ったわけであります。
  なぜ私が建築をやりたかったかということの一つは、働くときはうんと働くけれど、一段落したらなにかグツと休みたい、毎日同じように銀行へ行って、お金の計算するなんていうのは非常に厭でありまして、やるときは大いにやるけれど、休むときは大いに休むというような職業はないか。そして、父は医者でありましたが、母方に芸術家が多くて、母の弟は藤田嗣治だとか、従兄弟が小山内薫だとか、いろんなのがいまして、なんとか芸術と科学との融合、建築がいいなあという程度で入りまして、池辺君にやられたわけでありますが、そんなことでまあまあ卒業いたしました。
  戦争になるわけですが、戦争の話は、本当は酒を飲まないとしないことになっているのですが、これから定年退官される先生は、戦争の話をしたくてもおそらくできないと思いますので、最後にチョボッとだけ、1、2分だけさせていただきたいと思います。
  青島に行って帰ってきてから、いきなり海軍技術中尉でありますが、ちょうど皆さんぐらい、大学院生ぐらいだと思いますが、ニューギニアに飛行場を造るべく徴用工員を1、000人ほど連れて、そのうち200人ぐらいが私の中隊――私は中隊長にさせられました――、それを一緒にひっぱっていきました。隊員の中には、いま思い出すと、大学で話をするにはふさわしくないかもしれませんが、め組の親分大庭高太郎、横浜の博徒三森宗五郎、それから浅草の小熊の安さん、というようなのが、私の隊におりました。これは弱ったなあ。ちょうど皆さんぐらいの年だった。ところが、フィリピンを出ますと、サンギ海峡というところへかならず潜水艦が出ると聞いておりましたが、本当に出ましてボカンとやられまして、そして半分を、とにかくやられないほうの船にひきとって、どうやらこうやらニューギニア島に到着いたしました。そこで飛行場を造りましたが、ついにわが国の飛行機は1機も来ず、向こうの双胴機がワーッと飛んできて、最後に、できた飛行場でなんにもしないのは残念だというので、海軍が積んでくれましたラケットと球、それを軍医さんとパッパと一、二回ぐらい打ちあって、それで帰ってきました。
  アンボン島に引き揚げるので、輸送指揮官をやれといわれました。君は少なくとも大学を出たんだから、何かできるであろうと。それで私は最近思うのは、この頃は教養学部でいろんなことを習われます。天文学から物理学から力学から。私も、簡単にものを考えて、“ハハア、ニューギニアからアンポンヘ、間のところに島がある。その島のあたりで何時何分にちょうど月が沈むから、それに間に合うようにスースースーと、3,000入の隊員を乗せて連れて行かなければならない。船が、こっそり夜陰に乗じて入ってくるから、一人何秒かでこの巡洋艦に乗せる。”初めてでやったことのないことをとにかく考えて、まあ度胸があったというんでしょうか、とにかくその3,000人と機材を乗せて、輸送指揮官の任務を果たしました。これは全く大変なことでありまして、当時、私と一緒の医学部を出たのは――この連中は三年半で出ました――手術をやったことがないのですが、隊員が盲腸炎になった。さて、切る。なかなか盲腸が出てこない。どうしたんだろう。看護兵がそれは腹膜というもので、その下に盲腸があると。そうかともう一度切ると何か出てくる。それだ!と。こちらも全く何もやってこないけれど、建築出たから、木造の大きな橋が造れるだろうといわれて、やったことないんだけれど、何か一生懸命やりました。それがいまや軍医は医者になり、私は建築家になり、まあやっているわけですが、大学で教わったたったチョッピリなことでも、それが何か専門家意識として一生懸命やると、ちゃんとなんとかなるようであります。
  最後に、いよいよだんだんおかしくなってまいりまして、やっぱり命をかけていることでありますので、ちょっとだけしゃべらしていただきます。最後にテルナーテ島というハルマヘラの脇の小さな島に、傷病兵を連れて、私ともう一人、いま清水建設にいる男と二人で、私は指揮官で行っておりましたとき、敵前上陸がありました。私は司令官から捕虜になってはいかんということを強くいわれていましたから、断固これを撃滅してやらなくちゃいかんと、本当に曳光弾が飛び交う中に、「突撃!」といったけれど、皆ついてこない。ちょっと待ちなさい。もしかすると上がってこないかもしれないから、というので、それで暫くして行きましたら、その日に限って上がらなかった。本当にその日だけ上がらなくて、あとで上がったんですが、それでいま助かってここにいるわけでありますが、その人は朝日保君という中尉でありますが、本当に勇ましかったと。私もそんな時代があったのかなと思いまして、非常にまあうれしかった。そのときは、本当に死なんということは考えていなかったのであります。
  それから、帰って来まして、本当に食うものもなく、どうしようかなというふうなことを考えましたとき、たまたま東京都の復興のコンペがありまして、それを一生懸命、製図板がないので床にケント紙を張って書いたりなんかしたのが、どうしたはずみか、びりっかすで入選いたしましたので、まてよ、設計をやってみようかなあという感じになりました。それからまた、池辺君が戦争から帰ってくると、どうだ、坂倉事務所に来たらというので、それじゃあというので連れていってもらった覚えもあります。
  それから、なんとしても外国へ行ってみたいということで、留学生試験を受けたわけでありますが、これが、われわれがいままでならっていた英語の試験と全然違うんです。英語に関しては、まあ受験英語では、かなり自信がありましたんですが、試験を受けに行きましたら、いきなり、アメリカの婦人が出てきて、ペラペラと、ラガーディア飛行場で、なんとかかんとか、迎いに来て、どうとかこうとかいって、それで、質問、「いま来た女の人は、何色の洋服着ていたか?」さっぱりわからんってことになったり、とにかくいろんな、われわれが受験英語で考えていた英語と全然違う試験で、全く面くらいまして、見事落っこちました。それで次の年、よしきた、こういうことならということでやりましたところ、うまく入りまして、戦後初めてのハーバード留学ということになりました。その頃は本当に――この間工学部ニュースにもちょっと書きましたけど――、靴をはいていると気持ちが悪くないかとか聞きにくるやつがいたり、私はワイシャツを2枚持ってアメリカヘ行ったわけでありますが、洗濯屋へ1枚持っていったら1枚じゃ受け付けない、最低4枚じゃないと受け付けないということで、あと3枚ぐらいを乏しい金で買って、1枚を残して洗濯屋に出した。こういうように、われわれの生活とは非常に食い違っていた時代でありまして、日本人は本当に歯をくいしばって頑張っていないと、はだしの人たちにはいい成績は取れないだろうといわれそうな感じの時代でありまして、最近留学される皆さんとは大分違います。しかしながら当時いた人たちがいまみんな活躍していて――たとえばハーバードの同級生ではノルベルグ・シュルツがいましたが、彼はその頃から設計はあんまりやらなかったけれど、一生懸命理論のほうをやっておりました。彼は当時からセマンティックスに非常に興味を持っていて、ミスター・セマンティックスと呼ばれ、ドミトリヘ帰ってからもまた議論をやるので大変でした。彼はExistence, Space and Architecture あるいは、Intentions in Architecture といろんな本を書いていますが、当時、いまから30年ぐらい前からこういった考えを持っていたということで、やはり、学門の展開に関して、非常に長い道のりがかかっていると思います。それからまた、フィリップ・シールだとか、デビッド・クレインとかそういう連中もおりました。シールは、東京にもときどき来る人であります。
  それから、ハーバードを終わってブロイヤーの事務所で1年働いたわけですが、どうしてもヨーロッパヘ行きたいというので、ロックフェエラー財団に申請いたしまして、ヨーロッパヘ行くトラベル・グラントをお願いいたしましたところ、よろしいということで行けることになりまして、さっきのイタリアの空間のことに展開してまいったわけであります。
  そして帰国いたしまして、さあ、どうしようかなと思って丸ビルをフラフラ歩いておりましたところ――これから、どうやって建築の設計をやるのかという話になるかと思うのですが――、昔ちょっと知っていました、当時中央公論の専務をしておられました栗本和夫さんという方が歩いている。「芦原君、何してるんだ。」「実は、ハーバードヘ行って、建築の勉強をして帰ってきたんだけど、これから何か設計ないかなと思って考えているんです。」と。「それじゃ君ひとつ、わが社はいま70周年の記念で、社屋を清水建設に設計施工で頼んでいるけど、せっかくだから、まあ案を出してみなさい。」ということになりました。清水建設には幾分恨まれたようでありますが、同級生らに集まってもらって一生懸命やって持っていったところ、よかろう、これでやろうということになりましてやったわけですが、それで幸いにして学会賞をもらうことができたわけです。そして、そのビルの中に入れてもらったわけです。
  冷暖房のついたビル、そこで設計をやるなんてのは、うらやましいなあって、ずいぶんみんなにいわれたんですが、さて、その次にやることがなくなって困ったなあっていうときに、われわれの先輩で、内藤亮一さんという方が横浜市におられました。その方が、当時横浜市の建築局長をしておられまして、実は、やることがなくて困っているんだといって遊びに行った。「君、病院やったことあるか。」っていうから、「いや、そんなものやったことない。」と。「なかなかいいことをいう。面白いね、君は。じゃあ一つ病院やってみたらどうだ(笑い)。普通、何かやったような歯ぎれの悪い話をするけど、全くやったことないなんていうのは面白いね。」というので、市民病院の設計をやってみなさいということになりまして、やったわけであります。これがやっぱり賞を頂きまして、実は、何を話したいかというと、皆さん若い方が、建築の設計をやろうといってやっておられますが、だいたい初めは住宅みたいなものをやるわけです。われわれもそうでありました。ハーバードヘ行く前には、本当にもうささやかな住宅だけをやっていたのですが、それをいかにして、いく分大きな、公共的なスケールのものに切り換えるかということを皆悩むわけでありますが、それにはいろんな方法があると思います。それで私の思いつく方法をいくつか紹介してみたいと思うのであります。