東大最終講義
日本の住宅配置
アメリカの住宅配置
芦原義信  東大最終講義
第1章 内的秩序と外的秩序
司会(鈴木成文)
  ちょっと芦原先生についてご紹介申し上げます。先生は昭和17年の9月に卒業になりまして、それは、ちょうど戦時中だったので2年生の卒業ということですが、その後直ぐ海軍にとられまして、技術将校としていろいろ活躍されましたが、その後、戦後21年に帰られて、その後しばらく、ちょうどこれは戦後の復興期でございますが、建築設計の仕事をされて、それから、昭和27年から、ハーバード大学の大学院に入学されて1年向こうで勉強されて、その後、マルセル・ブロイヤーの事務所にも勤められて、29年に帰られまして、芦原義信建築設計研究所を作られました。その後数々の名建築を設計されておられます。その頃の設計では、たとえば中央公論ビルなどは、日本建築学会賞を受賞されておられます。その後、法政大学の教授、武蔵野美術大学の教授等を経られましたが、昭和45年の6月に、東京大学の教授に就任されて、ちょうど今年で9年間、この4月1日で定年退官されるという次第です。ちょうどこの東大で、芦原先生の講座、これは建築設計に関する講座ですけれども、これを設立しましたのは、どうも建築学の教室というものが、細かく講座、講座に分かれて、専門分野の研究はいいんですけれども、昔からあった建築の設計を、大きくまとめるということが、学生の研究にはどうしても必要であるということで、他の大学には比較的少ないかもしれませんが、建築設計の講座ということで、これは、学部の講義はしないで、むしろ設計の指導の中心になって頂く、そういう講座を作ろうということで、芦原先生においで頂いたわけです。つまり、世の中で建築の設計をずっと今までしておられる方、そういう建築設計の実績があり、また、現に設計しておられる方、これをお招きしようということで芦原先生を、昭和45年に東大の教授としてお招きしたわけです。
  芦原先生の設計は、数多くありますので、みなさんよくご存知かと思いますけれども、先ほど申しました中央公論ビル、それからその他有名なものでは、駒沢公園のオリンピックの体育館及び管制塔とその広場、それから、武蔵野美術大学の校舎の建物と広場とか、都心では、有名なソニービル、ちょっと変わったものでは、モントリオールの博覧会の日本館とか、その他数多くのものがございます。それから、先生は、著書もいくつかございまして、学位論文をもとにした“外部空間の構成”というのがございますが、その後それを書き改めて、英文で“エクステリアデザイン イン アーキテクチャー”というのがニューヨークから出ております。これは、挿絵入りのなかなか面白い本ですが、またそれを日本語に訳された“外部空間の設計”もございますし、さらに、本日発売の岩波書店から“街並みの美学”というのも出ております。こういう具合に、もちろん設計が中心でございますけれども、その他数多くの著作があるということで、本日の最終講義は、芦原先生実は、もともと講義よりは学生の設計指導してくれということでお招きして。講義はしない先生ということであるわけですけれども、東大をやめるに当たって、最終講義だけは、学生を相手にやって頂くということにしております。それでは、先生、どうぞ宜しくお願いいたします。

  ただいま御紹介にあずかりました芦原でございます。たいていの人はよく知っているので、今さら紹介するのもどうかと思いますけれども、鈴木先生から非常に懇篤な紹介を頂きましたが、きょう、最終講義として与えられました時間のうち、半分くらいを“建築空間の構成とその研究”ということについてしゃべらせていただいて、そのあと半分ぐらいを、どのようにして一人の建築家ができたか、自分の例でしゃべってみたいと。それで、最後に少し時間がありましたらば、若い方に言い残すことでもいって、終わりにしたいと思います。元来おしゃべりなものですから、しゃべりだすと、時間がどうなるかわかりませんが、うまい具合に分けて、しゃべらして頂きたいと、そういうふうに思うわけです。
  早いもので、昭和45年に東大に参りましてから、数えてみると8年10ヶ月になりまして、きょういよいよ最後の講義ということですが、学部では講義しなくてもいいと、大学院では、講義しておりましたけれども、今日はそういうことで、学部というか大学院の講義の最後みたいなことで、一つの空間の問題について、自分の今まで考えてまいりました事等につきまして、お話したいとそういうふうに思うわけです。今日、私が申し上げますことは、建築家として、非常に実体論的に、いかにして建築の空間を構成していくかと言うような事を中心に、空間とは、どんなものであるかということを、私なりに考えてみたことをお話してみたいと、そういうふうに思う次第でございます。

  建築とは、いろいろ定義がございますが、通常、屋根とか、外壁とか、そういったものによりまして、自然から切りとった内部の空間、その実体をいうことだろうと思います。そこで、非常に大きな彫刻だとか、送電線のように、内部空間のないものは、なかなか建築とはいいがたいということがいえると思います。普通常識的にいいますと、建築家の立場から、実体論的にいいますと、床とか、壁とか、天井というような三つの空間を限定します要素によりまして、空間を造っていくわけであります。その中でも壁の存在というのは、建築空間を規定する上におきましては、非常に意義があるわけで、ここに、1枚の壁が立てばそれに、内側とか、外側とか、あるいは内部とか、外部とか、そういう空間が、そこへ出て来るわけでありまして、建築技術というのを考えてみますと、非常に大きな自然、その自然の中から、壁を立てることによって内部の空間を造っていく技術、あるいは、自然の中から、壁を立てることによって人の住める内部の空間を造っていく技術というふうに考えられるわけです。そんなことで、無限の大きさの建築というのはないというのは、いかにその壁の存在ということが、非常に重要な意義を持っているかということがいえると思います。もし壁があると、その壁から、求心的に空間を整えていく技術ということが、一方には考えられということが言えると思います。
  これを非常に通俗的な言葉でいいますと、私が前から非常に関心を持っていることなのですけれども、普通わが国では、内部と外部の空間の概念に関しまして、ちょっと西欧の人たちとは違う考え方があると思うのです。それは何かといいますと、うちへ帰って靴を脱ぐ。靴を脱いでうちの中に入る。そうすると、内部の空間に入ったと感ずる。靴をはいている間は外部の空間にいるというようなことが、伝統的にわれわれの体の中に住みついているわけでございまして、これは西欧の空間概念とちょっと違う独特なものだというふうに考えられますが、そのことについていち早くいわれたのは、皆さんご承知のとおり、和辻哲郎先生の『風土』の中にあるということでありまして、この『風土』というのは、その意味では非常に示唆に富んだ本であるわけです。
  そして、同じ場所でも、われわれは内部と考え、西欧の方は外部と考えたりするということがあるということを、これもまた極めて皆さん誰でも知っているような卑近な例でちょっと説明させていただきますと、たとえば、旅館とホテルなんていうと、通俗的に聞こえますが、考えてみますと、なかなか意味のあることだと思うのです。旅館というのは、この頃は外観が鉄筋コンクリートで、非常に近代的なものもございます。それで中に入りますと、じゅうたんが敷いてあって綺麗なロビーがあるというようなことでありますが、この旅館の内部の秩序というのは、どういうふうになっているかといいますと、玄関で靴を脱ぐ、そして旅館の中に入ると、――いま旅館といっているのは、旅館から発したホテル、観光ホテルというようなものだと思いますが――、靴を脱いで内部に入るということ、すなわち、部屋に行きまして、まあ風呂にでも入ろうかということになりますと、やはり手拭でもさげてずっと降りていく。エレベ−ターに乗って、また玄関ロビーを通る。そうすると、玄関ロビー辺の空間は、われわれ日本人にとってはどういう空間だろうかということを考えてみますと、これは、どうやら靴を脱いだということから考えて、たしかに内部の空間というか、内的秩序の空間というふうに考えられると思います。そして、小さな個室で小さな風呂に入るよりは、大勢一緒に、景色の良い、海や山や谷の見える大きな浴場でみんなで入るほうがいい、ということは、その近代的な旅館の内部の秩序は、やはり内的な秩序の支配であるということが、いえると思います。
  それに対して、いわゆるインターナショナルなホテルは、どうであるかということになりますと、これは、ご承知の通り靴をはいております。ですから、いまと同じような場所が、玄関ロビーとかそういったものは町の秩序の延長でありまして、これは、外的秩序のいうふうにいえます。個室に入って、鍵をおろして、初めて自分の一人の空間、内的な秩序に入るというふうに考えられます。そうしますと、今、エレベーターの中だとか、あるいは廊下だとか、あるいはロビーだとかいう空間は、一見同じように見えますが、質的にはわれわれは、旅館の場合はこれを内的な秩序と考え、ホテルの場合はこれを、外的秩序の支配と考えるというようなことが、あると思います。
  そういったことは、住宅の配置計画などでもあるのでありまして、たとえば、これをわが国の住宅の配置というふうに考えてみますと、道路がありまして、ここに一軒の家の塀があるとしますと、この塀に囲まれた中の空間はいったいどういうことかといいますと、少なくとも自分の土地でありますから、これは、自分が勝手にしていいところの土地であるというふうに考えられますから、これは、完全に内部の空間である、あるいは、内的秩序の空間であるというふうに考えられます。それに対しましてこれは、たとえばアメリカあるいはオーストラリアのシドニーあたり行ってみますと、道から非常に綺麗な家が建っております。ここに、いわゆるフロント・ガーデンというのがございます。フロント・ガーデンはいったい誰に属するかといっていろいろ考えてみますと、ここに窓がありますが、実際この家の中に入ってみますと、窓からこのフロント・ガーデンはあまりよく見えない。その代わり、道を歩いている人には非常によく見えるのであります。また、この辺の庭に関しましては、隣近所も非常に注意をはらっておりまして、きたなくすることに対して非常に批判もあるし、また、奇麗な庭を造れば、コンテストによって表彰されることもある。この辺の空間は、たしかに家の前の空間であるには違いないけれども、質的に、あるいは、市民感情として、意識の上で外部ということがいえると思うわけです。これは、全く同じ家の前の空いている空間でありますが、そのように違うということがいえます。
  そのことを、大学のキャンパスなんかに応用してみると、どういうことになるかというと、たとえばアメリカの大学に行ってみますと、ずっと歩いていると、いつの間にかキャンパスの中に入ってくる。そのままずっと歩いて行くと、いつの間にか住宅地のほうへ入ってしまうという大学が、ずいぶんございます。そして、大学の住所も、学部によって違う場合があります。何々大学といっても、なんとかストリート何番地、こちらの学部は、また道が違いますから、なんとかストリート何番地。キャンパスの中で駐車違反もとられる。アメリカの大学の場合は、いまいいましたことから考えますと、外的な秩序が大学のキャンパスの中まで入っているということがいえると思います。それに対して、この東京大学は、ご覧のとおり、正門、赤門、竜岡門、その他いくつかの門がありまして、構内というような形になっています。そうしますと、たとえば、アメリカの大学の建築学科の前の空間と、われわれの一号館の前の空間は、同じ土地であるにもかかわらず、質的にはずいぶん違う。これは、どういうことかといいますと、門によって囲まれているということは、やはりこれは内部の空間でありまして、ここに外部の人たちが勝手に入ってきますと、教官も、学生諸君も、なにかみんな家庭の中に知らない人が入ってきたときのような違和感を持つということだと。これ、よく考えてみますと、東京大学の場合、正門や赤門に下足がありまして、靴を下足で預けたような意識において、この大学の中にいるというように考える。というとちょっと妙でございますが、私の空間論でいくとそういうふうなことになりまして、これは、どっちかというと宿屋形式の大学であり、あるいはホテル形式の大学とちょっと違うということが、あると思います。
  これは、宿屋が悪くてホテルがいいとか、ホテルがよくて宿屋が悪いとかいうものではないと思います。たとえば、京都あたりのいい宿屋へいって、ゆっくり泊まりますと、実になんともいえない、ああよかったなと思うのでありますが、これは、やはり時と場合によりまして、かなり余裕があって、暇で、ゆっくり外部と関係なく時問があるときは宜しいんですが、この頃のようにいろんなアクティビティなんかが出てきますと、ホテルもいいということもあるということが、やはり大学についてもいえるんじゃないかというふうに考えられます。
  それに対しまして、やはり和辻哲郎先生の『風土』の中には、また面白いことがいろいろ書いてありまして、ヨーロッパでは、内部の空間と外部の空間の同視がある。それがあるからこそ、都市計画というアイディアが非常に進んできているというようなことについて、触れられておりますが、それは、たとえば靴をはいたままうちの中へ入るじゃないかということを、また逆でいえば、足袋はだしで町の中へ出ていけるというようなことを、われわれなりに翻訳すれば、そういったようなことであるともいうふうにも、いえるわけであります。たとえば、ちょっと『風土』の一部を読んでみますと、<一歩部屋を出れば、家庭内の食堂であると町のレストランであると大差はない。すなわち家庭内の食堂が、すでに日本の意味における外であるとともに、レストランやオペラなども、いわば茶の間や居間の役目をつとめているのである。だから、一方では日本の家に当たるものが、戸締まりをする個人の部屋にまで縮小せられるとともに、他方では、日本の家庭内の団欒に当たるものが、町全体にひろがっていく。そこには距てなき間柄ではなくして距てある個人の間の社交が行われる。しかしそれは、部屋に対してこそ外であっても、共同生活の意味においては内である。町の公園も往来も内である。そこで、日本の家の塀や垣根に当たるものが、一方で部屋の錠前にまで縮小したとともに、他方で、町の城壁や濠にまで拡大する。日本の玄関に当たるものは、町の城門である。だから、部屋と城壁との中間に存する家は、さほど重大な意味を持たない。日本人は外形的にはヨーロッパの生活を学んだかも知れない。しかし家に規定せられて、個人主義的、社交的なる公共生活を営み得ない点においては、ほとんど全くヨーロッパ化していないと言ってよいのである。路面にアスファルトを敷いても、それが足袋はだしで出て行ける場所であると誰が感ずるであろうか。あるいはまた、靴をはいても、そのままで畳の上にも上がれる履物であると、誰が感ずるであろうか。すなわち「家の内」と「町の内」との同視がどこに存在するであろうか。町を、あくまでも家の外として感ずる限り、それは、ヨーロッパ的ではないのである。>というようなことが『風土』の中に書かれて、そういった問題について、示唆の多いことを述べられております。
  さて、そういたしますと、さきほど述べましたように、空間を規定する三つの要素、これは、たとえば建築家が、床と、壁と、天井を使って空間を造っていく、あるいは、私が非常に興味があります外部空間の場合は、床と壁だけで、天井というエレメントなしに空間を造っていくということが、いえると思いますが、いずれにしても、さっきちょっと触れましたように、壁というのは非常に重要な意味を、建築におきまして持っているわけであります。  いつか新聞を見ていましたら、非常に面白いことがありましたので、それをちょっと引用させていただきますと、そそっかしい大工さんが、釘を、トントン、トントンと打つと、そうすると、長屋ですからブスッと隣の仏壇にささった。これは、「粗忽の釘」という落語であります。これを聞いたフランス人が、日本には、そんなに長い何十センチもある釘があるのかと、(笑い)こういったという話なんです。それだけじゃないんですね。逆に今度は、壁を自由に通り抜けられる超能力を持った男がフランスにいた。今度は、フランスの小話になるわけです。ある日、壁の中に入り込んで、隣室に首だけスーッとこう出して、日頃小言ばかりいう上役を驚かした。これを、マルセル・ヱイメの「壁抜け男」というんだそうです。今度はこれを聞いた日本人がわからない。おかしいな、壁の向こうへ超能力で出るのはわかるけれど、壁の中へ入っちゃうというのはいったいどういうことなんだろうかということで、今度はわれわれがわからない。その新聞の記事の最後のところが面白いのですが、ヨーロッパの住宅の壁は、それほど厚いのである。ロンドン郊外の二戸連続建ての住宅の戸境壁は70センチ。ドイツの住宅では、内と外とを隔てる外壁の厚さが49センチ、部屋を区画する間仕切り壁で24センチが標準。そして、壁の占める面積が家の総面積の約20%もある、というようなことが出ておりました。これは、非常に面白い引用だと思うのでありますが、たしかに、西欧に行ってみますと、壁が厚くて、ホテルに泊まって、ドア――これもダブルドアになっている――をギー、ガチン。わが国の方はスルスル、スルスル(笑い)。まあ、極めて印象的なお話をいたしますと、そういうことでありまして、これは、わが国の壁に対する考えというのは、どちらかといえば、徒然草、兼好法師的なものでありまして、自然と連帯するということが、非常に重要でありまして、春の若草、あるいは夏の夕涼み、秋の名月、冬の雪というような感じでありますのに対して、西欧では、実存主義的な立場から、あるいは、非常にいろんな哲学的な立場から、たとえば、バシュラールだとか、ボルノーだとか、ハイデッカーだとか、そのほか大勢の人たちが、空間について、あるいは、その壁によって得られる庇護性につきまして、ずいぶん述べておられるのに対して、わが国では、どちらかというと、いまいったようにスルスル、スルスルッという感じの文学、そういったものが非常に多いわけであります。
  これにはいろんな理由がもちろんあると思いますが、きょうは、その辺は省略させていただきたいと思います。これは、やっぱり、組積造と木造、あるいは湿度との関係、いろんなことがあると思いますが、伝統的にわが国の建築の壁に対する考えは極めて希薄でありますのに対して、西欧では、組積造、メーソンリー・コンストラクションというようなことから、非常に堅固な壁を造って、その壁によって、生活、あるいは庇護性というようなことを、十分に確保するということが強く考えられたというふうに考えられます。ちょっと引用させて頂きますと、この頃大学院でも非常にはやっておりますが、パシュラールだとか、ボルノーだとかが、いろんないいことをいっております。たとえば、バシュラールの言葉の中で、『家は勇敢にたたかっていた。それは初めのうちはなげいていた。このうえなく恐ろしい突風が、四方からいちどきにおそってきた。しかし家は頑強に抵抗した。すでに人間的存在となっていたその存在は、いささかも嵐に屈服しなかった。家は、まるで狼のように、わたしをつつむように身をちぢめた。そして、時おりその匂いが母親の匂いのようにわたくしのこころのなかにまで、しみこんでくるのを感じた。この夜、それはほんとうにわたしの母であった』なんて、こういう感じからいいますと、外が嵐で寒かったりすると、家の中が暖かいという感じ。それに対しては、相当頑固なしっかりとした壁の存在というものがなければ、とうてい考えられないものであります。この壁の存在というのは、いずれは都市の城壁にまで拡張されていくわけでありまして、都市の壁の存在は、これは都市地理学によりますと、乾燥地帯ということと大変関係が深いようでありますが、いずれにしても都市の城壁、わざわざ石を一個々々担いできて、そしてそれを都市のまわりに造って、空間を収斂的に、あるいは、内部に向かって整えていくような考え方と、それから、そういう城壁を造らないで、発散的にものを考えていったわれわれとの間に、幾分空間に対する考え方に違いがあるということがいえると思います。