芦原義信  わが軌跡を語る4
武蔵美大建築学科を創設する
――大学で教えるようになったのはいつごろですか。はじめ法政大学で、武蔵野美大に行かれてそれから東大、現在はまた武蔵野美大ですね。
  私がニューヨークのブロイヤーの事務所にいたとき、大江宏さんと高瀬隼彦君が南米へ行く途中に寄ったんです。大江さんは贅沢な人でね。「芦原さん、カーネギー・ホールの一番いい切符を取ってくれ」とか、ボストンヘ行くのにキャデラック雇ってくれとか、当時としては贅沢なのでびっくりしたんですよ。そのとき、私はまだ若くて張り切ってブロイヤーの事務所で働いていました。
  それで留学を終わって帰ったら、大江さんが「ぜひ法政にこい」というわけです。それで、講師になって、そのあと昭和34年に教授になったんです。そして7年間いるうちに、武蔵野美術大学が今度は建築学科をつくるんで「芦原さん、ぜひ主任できてください」と。それで私はハーバード大学の話をしたんですよ。ディーンがかわれば全部先生が入れかわって閥もへったくれもないんだといったら、自由に先生集めていいからというので、大学系列とかそういうのは一切抜きでやりました。早稲田の竹山実君とか日大の寺田秀夫君とかに集まってもらって、みんなで一生懸命やろうじゃないかということになったんです、それから校舎も設計させるというでしょう。それはいいなぁというので、法政からひっこ抜かれて武蔵美に行ったんです。その間にシドニーのニュー・サウス・ウェールズ大学とハワイ大学から、ビジティング・プロフェッサーできてくれというので行ったりしていたんです。
  そうしているうちに、吉武泰水先生から今度は東大が新しく設計の講座をつくるからこいといわれて、武蔵美に5年か6年ぐらいいて、今度は東大に移ったんです。東大は9年ほどおりまして、定年退官してまた武蔵美に帰ったんですが、そのときにいったんですけど、"セブン・イアーズ・イッチ“というんですか、7年か8年でちようどうまいぐあいにかわって行ったんです。

東大の設計に活を入れる
――東大の設計は、そういう設計の講座をつくるという意図もあったんですが、先生が行かれてずいぶん風通しがよくなってみんなうまくなりましたね。
  それには私もびっくりした。東大で教えたことは何かというと、顔を見て「きみは設計がうまそうな顔しているからがんばれ」とか(笑い)そんな話ばっかりしてね、「自からを信じる者は勝ちである」とか。
  まず私がびっくりしたのは、海外へ行きたがらない。海外へ行っている人は、ほとんど早稲田でしたね。早稲田は大隈精神というか、反骨精神があったんでしょうが、東大の人は寄らば大樹で、もしかすると失敗するようなことはやらないわけですよ。だから絶対外国に留学しないで、東大を卒業するとそのまま大企業に勤めるとか、安全なところへ行く。設計をやるなんていうのは、よほど変わったものだけだったんですね。
  ところが、やっぱり時代の反映でしょうかね、私が行ってからは計画デザイン系がものすごく繁昌して、われわれのところは押すな押すなの秀才ばかり集まってくるんですね。それで、留学しろとか大学院にはすぐ入るな、実社会で3〜4年やって、ほんとに勉強したくなったときにリターン組として戻ってこいとか、そういうことをいっていたんです。はじめは学生も半信半疑だったけど、いまは全員海外留学を希望しますね。それからコンペやるとスパスパ入るしね。
  それで、私は退官するときにいった。この10年は、東大の設計黄金時代、この中からかならずだれか世界に冠たる人が出る。それをオレだと信じた人が勝ちである。(笑い)信じない奴はだめだと話した。いまはみんなそういう雰囲気ですね。だから俄然うまくなりました。
  それからこの間、中国の天津大学で3ヵ月ほど教えて欲しいというので、とても忙しくて3ヵ月は無理なので、3つの条件を出したんです。ひとつ、3日間の集中講義、ふたつ、日本語を使うこと、三つ、女房同伴という条件を出したら、それでいいというので行きました。天津では学長ともすっかり仲よくなり、客座教授という資格をくれて、いつでもまたきてくださいっていわれました。そうしたら、なんと私の本が中国語に翻訳されているんですね。私のゲシュタルト理論、「図」と「地」というのはよく考えてみると、中国の陰陽説なんで、非常に中国的な面を感じてもらえるんです。
  この本は、英語にもなっているんですが、今度はスペイン語になりました。アメリカ版は改訂してぺ一パーバックになったりして、なかなか評判がいいらしい、それはなぜかというと、アメリカから見ると、ゲシュタルト理論がアジア的というか、東洋の神秘なんですね。逆に中国から見ると、自分たちは2000年も前の昔からこんないいこと考えていたと思うんでしょうかね。
――先生が東大の教授をされている間は、国家公務員法によって民間の会社、つまりご自分の設計事務所にタッチすることは、名目上できなかったわけですね。その間の事務所の運営はどうされていたわけですか。
  私が東大在職中は、中央公論ビルの設計のときからいっしょにやってくれた守屋秀夫君というきわめて優秀な人が、当研究所の所長をしてくれたので、大変助かったんです。私は大学の行き帰りに事務所へ寄って、所員といっしょに、ちょうどやっていたふたつの大きなプロジェクトの設計に専念することができたんです。
  私が東大を定年退官してふたたび所長に戻ったその日に、守屋君は千葉大の教授となって退所したんですが、私としては本当に残念でしたね。彼は学問も実務もきわめて優秀でしたから。
  その間は設計事務所としての面倒くさい運営や経理、人事のことなど、私自身まったく関知しなくてよく、守屋君が全部やってくれて、設計デザインだけを考えていれぼばよかったので、私のこれまででもっとも幸福な時期でしたね。
――ふたつの大きなプロジェクトというのは、第一勧銀本店と国立歴史民俗博物館ですね。
  そうです。私が東大教授をしていた昭和47年の年末に国立歴史民俗博物館の設計の話をいただき、昭和48年の夏に第一勧業銀行本店の超高層ビルの設計の話があったんです。このふたつの仕事は、われわれにとって空前絶後の大型プロジェクトであり、一生のうちに二度とこんな機会に恵まれないだろうなと、建築家冥利に尽きる思いでしたね。
  ちょうど私自身も、若からず老いてもいない、人生のもっとも経験豊かな時期でしたからね。そのときにこんな仕事ができたことは、今でも深く感謝しています。

建築教育のポイント
 で、東大をよしてからいま武蔵野美術大学にまた戻ったんですが、一方、東京理科大学と北海道工業大学へ――私は北海道に行きたいと思っていたら、北海道工業大学ではじめて客員教授という制度をつくってくれましたので、年に3回行くんですけれども、そこの学生が何回か前に「日新コンペ」の2等に入った。それでもう急にわき返った。そこで、またいうわけ。私の顔を見て信ずる者は勝ちである。現にコンペで入っているじゃないかと、(笑い)今回はまた1等になったというんですね。だからおもしろい。設計を教えるというのは自からもやらなければならない。いくら手とり足とったってだめなので、この人のいうことを聞いていると、うまくいけぱ東京はおろか世界に通じちゃうぞ、「このぐらいできれば大丈夫」なんていうと、急に自信がついて、やると本当にうまくできちゃう。おもしろいもんだねエ。(笑い)
  それともうひとつは、この間、法政の卒業何十周年かのクラス会があって呼ばれたんです。いまはみんなりっぱなおじさんになっているんだけれど、「芦原先生は外国から帰ってきたばかりでえらいしゃれていた。洋風便器はこういうふうにしてやるとか、近代建築というのはミニスカートで足がシュッと出ている、そういうものを近代建築というんだとかいって、ものすごく印象的だった」というんです。実は私はそんなこといったの覚えてないんですよ。さっきの藤島先生の話じゃないけれども、先生というのは大事なんですね。それから若いときに聞いた言葉というのは忘れられない。私が大学生だったか、大学卒業してすぐのころか、丹下健三さんや池辺陽君なんかと杉並のどっかに集まって、建築について議論する会に行ったことがあるわけです。そこで非常に大人っぽい議論をし、終わって外へ出てきたら天に星が輝いているわけ。そこで「ARSLONGA、VITABREVIS(人生は短し、されど芸術はとこしえに)」って言葉を思い出してね。もう40年になるんだけど、そういう若いときのちょっとした言葉とかインスピレーションだとか、刺激だとか、そういうことが一生の起爆剤となって前進するということを、身をもって体験しましたね。
  感受性がなくて非常にシニカルでひややかな人はその電波を感じないから、学生にいうんだけれども、「これはおだてられたかなと思っても、電波に感じてそのつもりになった奴が勝ちなんだぞ」というんです、まぁ、どっちが本当か、いまはクールな時代ですからね。(笑い)

外国での活動――デロス会議で思う
――先生はずいぶん外国へ行かれてますね。特にドキシアディスのデロスの会議にも出席されていますね。
  この間も考えたんですが、人生で非常に思い出深いものは何かといったら、やっぱりドキシアディスのデロス会議に参加したことですね。あれはそもそも、どういうことで行ったかというと、私がギリシアヘ行ったとき、ドキシアディスってどういう人かよく知らなかったんですけれども、ちょっとオフィスヘ寄ってみたんです。それでいろいろな話をしたんです。「パンナムのスチュワーデスが向こうから降りてくるのを見ると、非常にプロポーションがよくてスマートである。だけど、そばにくるとソバカスがあったりして非常にぐあいが悪いことがある。ところが、日本航空のスチュワーデスは、向こうから降りてくる姿は何かドタバタとしているけれども、そばにくると肌ざわり、テクスチュアはすばらしくいいんだ。で、おたくの建築は、遠くから見るとエンタシスやプロポーションがいいけど、アクロポリスの丘に上がってそばに行くとただの石ころだ。ところが、日本の建築は、遠くから見ると何だか左右非対称で、ひかえめでひきたたないけれども、中に入ってディテールを見たりすればするほどよくなる」といったら、「きみはおもしろいこというなぁ。私は日本航空に乗って日本に行きたいから、ぜひ頼むよ」というわけです、そして、「その前にあなたはデロス会議にきてくれ」という。それでほんとに呼ばれちゃった。それだけの話なんです。行ってみて驚いたんですが、アーノルド・トインピー夫妻からマーシャル・マクルーハン、ハーマン・カーン、エドワード・ホール、ローレンス・ハルプリン、ハリソン・ブラウン、ルネ・デュボスとか、著名な人がゾロゾロきている。それが船の中で家族もろとも1週問をいっしょに過ごす。ウチの息子もハンス・アスプルンドの息子と同じ船室になって、インフォメーションを印刷させられたり配ったりして、それですっかり仲よくなって帰途、息子ひとりでスウェーデンのアスプルンドの家にも行ったりしたんです。とにかく午前中会議をやって、午後そこで泳いで、そしてディナー食べて、夜寝ている間に次の島に行く。そこでまだ会議をやる。本当にみんな仲よくなるし、本当に素晴しかったですね。それで、いまでも日本へくると私の家にくる人がいるんですよ、そんなことで世界の学者と結構付き合いがありますね。
――ドキシアディスが持っている船ですか。
  チャーターした船です。それで、いまになってわかったんですが、くる人がみな人間派なんですね。CIAMとはちょっと違う、それでいきなり「高層アパート反対、低層賛成」と宣言するので、「ちょっと待ってくれ」っていったんです。(笑い)それからそういわれて島巡りすると、サントリー二島はじめ、どれもみんな低層ですばらしいわけですよ。それがイタリアの広場のときから考えていた「街並みの美学」につながるんですけどね。
――スポンサー・シップをドキシアディスがとっていたのですか。
  そうです。ギリシアまでの旅費だけ各自負担で、そのあとは一銭も要らない。それで家族を連れて行くでしょう。それが楽しいんです、子供たちは甲板なんかで明け方まで毛布の中にくるまっておしゃべりをしたり、マクルーハンの息子がギターを弾いて、息子たちが女の子とくっついたり、そんなことやって、おやじのほうはおやじのほうで会議をやったり、それから会議の最後にデロス島に上がって、夕方、松明をたいて、昔の演壇でデロス宣言をやるわけです。とにかくあれは知的であり、かつ楽しくてよかったですね。

サウナをつくる
――先生はかなり前からサウナをよくやられていますね。どういうきっかけですか。
  あれはウチの奥さんがユキ・ヌミってデザイナーを知っていて、フィンランドがいい、いいっていうので、一度私が行ったらちょうどユキ・ヌミがいなくて、彼の親友の建築家ご夫妻を紹介してくれたんです。そこの奥さんが素晴しい美人でした、そこでその晩サウナに入れという。100℃だっていうのに入って、旅先で心臓麻痺でも起こしたら大変だと思ったら、絶対大丈夫だっていうから入ったら、これがすばらしくてね。そして出ると湖の中に飛び込むんだけど、あの白夜の中で、生まれたままの格構でいることのすばらしさは忘れられませんね。それでどうしてもサウナ小屋をつくりたいと思って、その人に頼んで釜を送ってもらって、本当にごく初期にウチの庭に建てたんですよ。
  ずいぶんいろいろな人が入りましたよ。フィンランドの建築家アーネ・エルビやヘッツキ・ホン・ヘルッエンというタピオラをやった人も入ったし、ヘイノネンというノヴァスキュラの友人も入りました。ずいぶんいろんな人と一緒に入っているんですよ。
  それで、どうしても東京のサウナじゃもの足りないので、箱根の山の中にサウナ小屋だけつくったんですが。最近薪がないのと忙しいのと、それから東京のサウナは、あまり家が狭いので物置きみたいになって正月の食料を入れたりするので、なかなか入れなくなっちゃった。(笑い)

著書――街並みの美学
――先生は本もよく書かれますね。
  私は昭和35年にロックフェラー奨学金をもらってアメリカヘ行って、学位論文を書いたんです。学位論文は普通、本にして出版するといわれているけれども、だれも引き受けてくれないと困るなと思って、ちょうど岩波の設計の仕事をやっていたもので岩波の小林会長に、「学位論文を書いたんだけど、出版してくれませんか」といいに行ったんです。そうしたらおこられちゃいましてね、「ウチは本屋だ。きみは建築家だから建築の設計は頼むけれども、本屋というのはちゃんとした人の、売れる本を出すのだ」といって断わられてしまったんです。
  それから彰国社に話をしたら出してくれることになり、あの「外部空間の構成」になったんです。そのときに、小林会長にいったんですよ。「ぼくらは中学、高校から岩波の文庫なんか読みながら育ってきた、だけどその中に都市とか建築の美しさに関した本は1冊もない、だから東京はこんなにひどくなった、あんたの責任だ」といったのです。「なにをいってるんだ。ウチがなんで東京に責任があるんだ」なんていわれたんですけどね。
  ところが、1年ぐらいしたら使いがきて、「なるほど君のいったとおりだから君の本を出してやるから原稿を持ってきなさい」というわけです。ところが、もう彰国社にお願いしちゃったあとなんです。「ちょっとないから」といって、そのまま20年ぐらいたってしまいました。それで、東大を定年でよすとき、いままで考えていたことをまとめたいと思って書きはじめて、岩波書店に相談したわけですよ。そうしたら岩波は前の経緯を覚えていて、無条件で出すといってくれた。やっぱり義理固いなと思いましたね。そこで、それから一生懸命書いて原稿を渡し、それが翌年の2月21日の最終講義の朝、『街並みの美学』として出版されたんです。非常に劇的で思い出深いんです。
  これについては、いろいろな方が書評をいっぱい書いて下さって、毎日出版文化賞とマルコ・ポーロ賞をいただいて、私としては非常にうれしかったですね。一般の人から「建築家というのは、ずいぶん難しいことをいってなにを読んでもわからないけれども、あんたのだけはわかりやすい」って、なんだかほめられたんだかバカにされたんだかわからないけど、(笑い)とにかくそうしているうちに岩波がフランクフルトのブックフェアに出展したんですね。そうしたらMITとソビエトとイギリスだったか、3カ国から翻訳の引き合いがあった。それでMITなら非常にいいなということで翻訳をしはじめたんです。
  ところが、翻訳が大変でね。というのは、外国の文章をあちこち引用しているわけですよ。ハイデッカーがどうとかボルノーがどうとか、そうすると原著と照合しなければならない。自分が書いているのだから、そんなところ抜いちゃってもいいんだけど、一部を翻訳してケヴィン・リンチとネイザン・グレーザーに見てもらったんです。そうしたら「これは日本人向きだ。もうちょっと書き直したほうがいい」といわれて、それから考え直して書き直しました。それから2年間がかりで半分ほど書き直したんですよ。リン・リッグさんというアメリカの女性が翻訳してくれたものを送ったら、これならよろしいというんで、MlTからいよいよこの春に出版されました。いま、それにまた味をしめて『続・街並みの美学』を書き終ったところです。
  それでなんと、私の『街並みの美学』の中の文章が高校生の国語の教科書に載りました。そんなことで文章も建築の設計と同様に、非常に大事だと思うようになりました。
  それともうひとつは、地方の市長さんや県知事さんが読んでくれるんです。いま、うるおいのある町とか文化性のある町とか、いい町にしようということが全国で非常に盛んでしょう。あちこちから講演とかいろいろな相談があることを考えると、本とかジャーナリズムというのはすごいもんだなと思いました。
  私の人生をふり返ると、ソニーでも富士フイルムでも第一勧銀でも、それから今度の国立歴史民俗博物館でも、みんなひょっとした縁で依頼されているんです。
  富士フイルム本社ビルのときは、あるところで講演会をやったのです。そのとき、富士フイルムのビルの塔屋に変な広告がついていて困るといったら、それを社長が聞いていて「私が社長です」といってこられ、それからその方と仲よくなって、「それならきみ、今度は理想的なビルをやってくれ」ということになったんです。(笑い)

建築家は顔つきが大切
――確かに建築家の場合、そういう人のつながりというのが大切ですね。画家などと違って、自分で勝手にかいてよかったら売れるというのでなくて、頼む人に信用されてはじめて実現するわけですから。
  そう。それでね、学生によくいうんですけど、設計ももちろんがんばってうまくならなきゃいけないけど、建築家は信念や顔つきが大事だ、とにかく大金を使わせるんだから、その大金をネコババするような顔をしていたんじゃだめだ。自分たちのためにうまく使ってくれる、それですごく一生懸命やってくれるというような信頼感がなかったら絶対頼まれないぞ、っていうんです。
――いまのそういうお話しと関係あると思うんですが、ちょうど公取の問題からはじまって、建築家の職能問題が一番大変なときに建築家協会の会長をなさっていたわけですが、建築家はこうでなくてはいけないんじゃないか、というお話しをお伺いしたいと思います。
 地方自治体は設計を入札で決めているんですね。これが建築家協会の会長として非常に弱ってね、建設大臣に会いに行ったんです。「あなたは、盲腸炎でおなかが痛くてしようがないときに、医者を5人集めて入札して、一番安い医者にかかるんですか」「いや、そうじゃない」「それじゃ、第二国立劇場をお建てになる場合、それを国際入札で一番安い札を入れた人に頼んだらどうですか」「それも困る」「そのように、建築の設計というのは金の多寡だけで決められない面があるんです」といったんです。
  ところが、今度はいろいろな地方自治体の長に相談を受けると、「君、そういうこというけど、見なさい、この名刺とこの紹介状を。建築家が偉い先生方に頼んできて断わりきれない。こっちを断わればあちらがぐあいが悪くなる。だから、あんた方のほうで自粛してくれないとどうにもならん」というわけです。
  さて、弱ったなぁ、両方真理なんですね。10年前はだれも頼みにこなかった。地方から恐る恐るお菓子箱なんか持って「先生、やってくれませんか」なんていってきたけれども、このごろは建築家のほうからおもしろいようにくるって、これは弱った。どっちがどっちともいえないんでね。
  そうしているときに丹下さんと鈴木都知事と話し合われまして、東京都は入札をよそうという方向になるというんですよ。これは画期的なことで、ちょうど政府も文化とか芸術とかそういうことをいい出されてきて、一方、金だけで決めるというのは、会計法や自治法かなんかを改正しないといけないそうだけれども、私の前の会長の海老原さんの時代に公取問題が出ましてね、料率でやるのが排除されたりして建築家多難時代になったけれども、われわれ自身も身の回りを潔白にして、人に疑われないようなことをしなくちゃいけない。
  建築家は自分の信念でいい仕事をやるのが一番いいんで、私はハーバードヘ行って、何を教わったかいま覚えてないけれども、ひとつだけ覚えているのは、「ビー・クリエイティブ・ビー・オリジナル」。これは日本の大学ではあまり聞いたことないんだけれども、独創的でなくてはだめで、人のまねしたら価値はないぞ、というようなことを強くいわれたのをいまでも覚えていますね。それが私の信条になっています。とにかく自分で考えて、それは下手でもいいから、文章でも設計でもやるべきだと思っているんです。
  私は1960年に世界デザイン会議があったときに「内的秩序、外的秩序」ということをいったんです。あのころはだれもそんなことはいってなかったんだけれども、結局いま考えていることは、あれとちっとも変わってないんです。30年前、イタリアの広場に立ってびっくりした感動が「図」と「地」とになって、いまに続いているんですね。だから、ある種の継続性はあるのかな。あまりうろうろしない点だけが特徴かなと思っているんです。

日本的特質を求めて
――最近、パラディオに興味を持たれているそうですが。
  この間ベニスのビエンナーレのシンポジウムに行って、近代建築はどうなるか、という議論をしたのですが、そのときバラディオのやったフォスカリのヴィラでポルトゲージが主催したパーティに行ったんです。十文字プランの非常に大きな空間で、百貨店の吹き抜けの下で食事しているような感じで落ち着かないというか、どうも不思議なスケール感でした。天井に壁画があるんですが、こんなところでヴィラとして気が安まるのかなと思いました。ちょうど行く前に日本の茶室へ行くチャンスがあって、あのうす暗い小さい空間と極端に違う大空間でしょう。それからいろいろな教会を見ていると正面だけわりとよくやっている。これでいいのかなとちょっと考え込み、それでパラディオに少し興味を持って調べてみたんですよ。『続・街並みの美学』の中で「ベニスの街角で考えること」という項でそのことに触れています。
  それから南ドイツのロマンティック街道や中世の都市を見たんですが、そのときにウインター先生というドイツの建築家がいて、日本の仏教の建築、生々流転などという変化して行くというようなことに興味を持って、日本にこられたことがある人がいて、その人が案内してくれたんです。それで、南ドイツのベランダにはみんな花が飾ってあるんですね。「なぜ飾ってあるんですか」っていったら、彼は非常に不思議そうな顔をして「なぜ、そんなこと聞くのか?」「いや、日本ではおしめからふとんまで干してある」「1日考えさせてくれ」って考えた結果、「どうもわからないけれども、確かにこれをやらないと不安になってくる。自己の存在の証拠みたいなもので、これを出さないと自己を見失うから出している」というんですよ。
  自分の家の中から見えないものになんでそんなにこだわるのかというと、非常に正面性とか左右対称とかを尊ぶんですね、そういわれてパラディオの教会を見ると、なにかそういうことあるんじゃないか、そうでないと理解できないようなものがある、それで、ウインターさんの「ゲシュタルト社会へ」という本を読んでみると、ヨーロッパのルネッサンス以降の、非常にしっかりしたものの考え方、生々流転の原理の働かないような考え方が、ヨーロッパを間違った方向へ引っ張って行ったのではないか。日本なんかなかなかうまく、フレキシブルにやっているじゃないか、という趣旨のことが書いてあるんです。で、東京なんかはアメーバ都市といっていて、こっちを押せばこっちが出てくる、壊しても壊してもまた出てくるという不思議な都市ですね。柔軟性があるというか、民主的な社会なんですね、日本というのは。それのヒントで、日本側からそんなような建築とか都市とかの特殊性を考えてみたいなと思っていて、いま研究中なんですよ。

法政大学で図学を教える
武蔵野美術大学アトリエ棟
芦原研究室
東大最終講義
天津大学で講義
守屋氏
第一勧業銀行本店
国立歴史民族博物館
デロス会議
デロス会議
デロス会議
自宅のサウナで
妻・初子と自宅にて
外部空間の構成
街並みの美学
図と地
図と地(反転)
続・街並みの美学