芦原義信  わが軌跡を語る3
中央公論ビルで事務所開設
――それが30年ぐらいですか。
  29年に帰ってきたのですから、そんなところかな。それがはからずも日本建築学会賞をもらったんです。それから中央公論に頼んで、「私たちの事務所、頼みます」って、その7階の狭いウナギの寝床みたいなところに入れていただいて、はじめたんですよ。だから、栗本さんは恩人です。
――先生の事務所は中央公論でスタートということになるわけですね。
  そうです。それから、内藤亮一さんという私たちの先輩で、横浜市の建築局長をやっている人がいたんです。中央公論が終わったときにその人に会いに行ったわけですよ。「君、病院の設計やったことあるか」「中央公論しかやったことない。わかっているでしょう」「ウン、正直でおもしろい男だな。では、病院の専門家をつけるから、その人と共同してひとつ病院をやってみなさい」と。で、ちょうど村野藤吾先生が市庁舎をやっていたんです。杭がなかなか入らない難工事で大変だったんですね、それで私たちの現場は内藤さんに心配かけないように一生懸命やって無事竣工しました。これも建築業協会賞をいただいたんです。
  それで、内藤さんも喜ばれて、山形の県立病院など紹介して下さいました。一方、中央公論は岩波を紹介して下さったりして、それでだんだん仕事が増えてきたんです。
――クライアントから紹介される形で仕事が増えて行たっんですね。
  そうです。これは強いんですよ。その後、岩波のビルは全部やらせていただきましたが、その間、小林勇会長にはずいぶん怒られたりしました。夏行って「お暑うございます」っていうと「何いってるんだ、夏は暑いのがあたりまえだ。オレは冷房は大嫌いだ」って。(笑い)そういう面白い人でした。  そうこうしているうちにオリンピックの話が出ました。私はまたちょうどアメリカへ行っていたんです。帰ってきたら今度はオリンピックの駒沢体育館をやれという。あのころは岸田先生がきっと、パパッと決めちゃったんでしょうね。それで一生懸命やりはじめると、中央公論じゃ狭くなってね。あちこちアパートを借りたりしてやってたんですよ。でも、どうにもこうにもしようがなくなって、原宿の表参道のセントラルアパートの地下が全部空いていて、それを全部貸してくれるというので、あそこへ移ったんです。今度は広いんです。ところが雨が降っているんだか雪が降っているんだか、昼なんだか夜なんだか何にもわからない。それで壁を青く塗ったり空の色を塗ったりしてやっていたんだけど、どうしても地下の設計室はよくないというんで、日の当たるところに出ようっていって、ここ渋谷の住友ビルへ引っ越したんですよ。
――中央公論のときには何人ぐらいでスタートきれましたか。
  はじめは構造事務所と一緒だったので、われわれのほうは6〜7人ぐらいで、全部で12〜3人ぐらいですね。そして出るときは、たばこ屋の2階を借りたりアパートを借りたりしていましたから、14〜6人ぐらいじゃないかな。それで、セントラルアパートのときは20人ぐらいですかね。

ソニービルの設計
 そうこうしているうちに、先ほどいった井上さんがひょっこりやってきて、「ソニービルをやるんだ。何かアイデアを」というんで、そのころ盛田昭夫さんも若かったから、ホテル・オークラの一室を借り切って、盛田さんと私たちと徹夜で大議論しながら案をつくったりして、おもしろかったですよ。
――そうですね。ソニービルは先生にとっても、日本の建築界にとっても、いろいろな意味で画期的なものでしたね。
  そうなんです。「横の銀座が縦になった」とかいわれてね。日本人は屋内には床の間をつくっているけど、イタリア人みたいに屋外に床の間をつくらないという反省から、あの角を10坪ほどを空けて、外部空間の演出を図ろうということになりました。それで、賀田さんという方が担当になっていろいろな演出をはじめたんですよ。さてよく計算してみると、どんな高いものを売っても、あそこの地価の高い土地では採算が合わないんですよ。それで盛田さんが、「ショールームというのは広告代と思えば幾らかかったっていいんだから、これはショールームにしよう」っていわれた。そんならこういう90センチメーターの段差のある花びら式がぴったりであるということになったんです。1階は待ち合いの場でパネル・ヒーティングになっているので、あそこで30分ぐらい待っていても寒くないですしね、夕方行ってみるといろんな人がきていておもしろい。待たされても腹が立たない。そんなことで、ソニービルは名物になって非常によかったです。

新建築に関係して
 ――話は別ですが、横浜の病院は新建築には載りませんでしたね。
  それはね、私が留学中、家内が新建築のいまの吉田社長や前の亡くなられた吉岡社長に大変お世話になっていて、私も新建築の編集顧問をしたりしていて、非常に親近感を持っていたんですね。
  ちょうどそのとき、川添登君を親分とする若い人たちの村野先生の東京そごうの取り扱いが失礼だっていうんで、吉岡社長のげきりんに触れて、全員クビになっちゃった。ソレ大変というんで、私と浅田孝君とある夜、社長の家に「そういうことをしないでもらいたい。若い人の将来も考えて、考え直してくれ」って、強くいいに行ったわけです。そうしたら、私と浅田君と同じこといったんだけどね、浅田君のほうは恨まれなかったのに、私に対しては「芦原君が困ったときに助けてやったのに、自分が困ったとき敵に回った」っていうんでカンカンになったらしい。それをこっちは知らないでいましてね。それから1年ぐらいたっても、なかなか私の作品は新建築に出してもらえない。そうしたら、ある日、いまの社長の吉田さんがきて、「ほかの人は和解したけど、あなただけには吉岡社長はまだカンカンで、芦原の作品は絶対載せるなといっていて、自分たちも困っている。できたら正月にでも奥さんと一緒に家に顔を出して下さいよ」といわれたわけです。それで、正月、女房と久しぶりにあいさつに行ったんですよ。そうしたら吉岡さんはものすごく喜んでね。もともと家内にも私に対しても、別に恨んでいたわけじゃなかったけど、ああいうときに楯突いたというのが気にさわってしょうがなかったんですね。
  それで「どうもあのときは失礼しました」ってあやまったら、ものすごく喜んで、今度は逆に「芦原をやれ」っていわれたらしくて、びっくりしました。あの人もほんとに昔かたぎの人でしたね。私は吉田さんに注意されるまで、吉岡さんがそんなにおこっているなんて、夢にも知らなかったんですよ。
  だけど、いま考えてみるとおもしろかったな。

モントリオール万国博・日本館の設計
 それから京都国際会館のコンペに応募しましたが、われわれの案と大高君、菊竹君の案が次点となり、大谷君の案が最優秀作となりました。
――オリンピックから今度はモントリオール万国博覧会の日本館投計へとつながってくるわけですが、こうみますと、いろいろエポックを歩んでおられる感じがありますね。
  そうですね、一度外国のもやってみたいと思っていたんですけど、あれはジェトロに頼まれてモントリオールへ行ったんです。知らない土地でずいぶん苦労しましたね。
――あのころ万博とは何かということも、あまりよくわかっていなかったときですね。
  そうですね。それで、飛行機に乗ってモントリオールへ行く途中、大雪で飛行機がサンフランシスコから飛ばなくなって、ニューヨーク経由で行ったのですが、そのとき隣に乗っていた人がミスター・ダンバルという男で、それが航空会社にホテルに泊めろとか、いろいろ交渉してくれて、非常に感謝したんですが、「あなたは何の商売だ」と開いたら、ダンバルって有名なエレベーター会社の社長だって。私は当時まだ知らなかったけれども。それで「日本にエレベーターだのエスカレーターはあるか」っていうから「何いってるんだ」っていいましてね。それでエスカレーターを日本館に取り付けようというとき、予算がないというんで三菱電機に頼んでエスカレーターを寄付してもらった。そうしたら、なんと胴っ腹に“MITSUBISHI”と大きく入れてね。それが日本の新聞で問題になって、私のところに週刊誌がインタビューにきた。「なんであんなの入れたんだ」「いや、そうじゃないんだ、日本にああいう製品があるということを示したかった。ミツビシだろうがヨツビシだろうが、なんだってかまわないんだ。とにかくダンバルとかオーチスでないということを示したかった」といったんです。(笑い)そこへもってきて、通産ベースで自動車を屋外の庭にダーッと並べたわけですね。あれで大分やられましたね。
  だけど最後に、建物は悪くないんじゃないかということで、昭和42年度芸術選奨文部大臣賞をいただいたんです。
――あれはPCの井桁組みで校倉造りですね。
  そう、非常に近代的なものだけど、あれはカナダで組立工事の引き受け手がなかったんです。
  しょうがないから、大成建設が入札して取って日本でつくって行ったんですよ。そして向こうで組み立ててテンションかけようと思ったら、向こうの請負が日本の製品じゃ危いとか何とかいって、なかなか引き受けない。しゃくにさわったから、トビの若いのを15〜6人達れて行ったら、向こうのユニオンが同人数の職人にお金を払えというんですよ。そいつらは日なたぼっこしている。それで日本から行ったトビが地下たびはいて阿修羅のごとく働くし、タッタッとのぼってピタッときめる。最後にテンションかけて足場をはずすときなんか涙が出るほどで、向こうのトビたちもはじめは日なたぼっこしていたけど、日本人があんまり要領よくやるんで驚いてましたね。
  それで、いまでも覚えているけれども、大成の小林という現場主任が、おもしろい男でしてね。柔道5段なんですが、それが行く前にお祓いを習っていった。そして上棟式のときに彼が神主の格好をして習ったお祓いをやったものだから、新聞・テレビが大騒ぎ。「日本はエンジニアが神官になる」って。(笑い)彼はもう顔役で、飛行場でも何でもフリーパスだ。「オー・カンヌシ」というんでね。(笑い)
中央公論ビル工事現場前
中央公論ビル工事中
(清水建設の西沢さんと)
中央公論ビル内設計事務所
ソニービルの前にて
横浜市立市民病院
京都国際会館コンペ
駒沢公園体育館
モントリオール万博日本館
の模型をまえにして
モントリオール万博日本館