芦原義信  わが軌跡を語る1
医者の家に生まれる
――先生はどちらでお生まれになりましたか
 東京は四ツ谷で生まれました。当時南伊賀町といわれたところです。家は西念寺というお寺の脇にありました。父は京都の奥の丹後峰山の在、脇野の生まれでした。若いころドイツに留学しまして、医学を学びました。明治元年生まれで留学して帰ってきたときにカイゼルひげを生やして、ビフテキを食べたというので家じゅう大騒ぎしたそうです。その後日清、日露戦役に軍医として従軍し、そのあと軍医をよしまして、四ツ谷で外科と皮膚科の開業医をやっておりました。近くに昔、鮫が橋といって、わりと恵まれない人が住んでいたところがあって、そういうところからくる患者さんなんかを一生懸命診て、わりと金に縁のない医者だったんですけれども、とにかく夜中にドンドンと起こされたり、夏なんかでも重傷者がいると、家を出られないし、もうほんとうに仕事を一生懸命やっていましたね。それを見て、自宅と職業が一緒にならないほうがいいな、と子供心に思っていました。
――その家はどういう家でしたか
 玄関だけ洋風でね、いま考えるとパラディアン・スタイルというのかな、柱が2本ずつ両側に立った左右対称の家で、上げ下げ窓のある白亜のしゃれた家で、ずっと奥深いんですが、中庭があって、その一番奥にすんでいたのです。
――そのころ育った部屋はどういう部屋でしたか
 兄弟がとにかく多いのですよ。私は8人兄弟の一番下です。はじめは裏のほうの小さな部屋にいたんですけれど、だんだん中学に行って受験勉強をする頃になると、親は中庭に小さな書斎をつくってくれましてね。その中で勉強していたんです。
――お母さんはどういうお方でしたか
 母はね、藤田という軍医総監の娘でした。
――そうすると森鴎外と同じぐらいですか
 森鴎外よりちょっと下です。森鴎外は官学派というのでしょう。祖父は官学派ではないんだな。それで軍医総監になって、娘が何人かいて、それをみんな軍医に 嫁ったんです。長男が憲法学者で藤田嗣雄、その次が絵かきの藤田嗣治、母は長女でした。叔父に当たる母の弟の藤田嗣治は、私の父がドイツから帰ってきて、ひげにブラシをかけたりするさまを見て、これは外国に行かなくちゃいかんと思って行ったそうですよ。まだ私が生まれる前の話ですけれど。
――ご兄弟は8人ということですか
 上に男が4人いまして、姉が3人いて、それから私だったのです。長男は胸を悪くして若いときの亡くなりました。それからあと3人。兄貴がずうっとつながっていて、一番上が日本航空、その次が韓国で、東洋拓殖に勤めていました。三番目が英了という兄で、末っ子の私ですからもうこんな年になりまして、だんだん減ってきてしまいましたけど、みんな医者にならなかったんですよ。勝手な方面に行って、姉も3人いましたけれども、それも違う方面にお嫁にいきました。 そんなわけで、一番影響を受けたり近かったりしたのはすぐ上の兄貴。蘆原英了で、これはいろいろなことが好きで勉強していたんで、「語学を勉強しろよ」とか「若いうちにこういうことをやれ」とか、ずいぶん説教された覚えがありますね。 小学校は、兄がみんな番町に行っていましたもんでね、私の家は四谷見附の西側でしたけれども、四谷見附を越えて番町小学校へ行きました。幼稚園からです。 とにかくおとなしくてね、それで先生も心配して「口をききなさい、口を」といわれたぐらいにおとなしかったんです。そして番町小学校を終わって。兄貴は府立四中へ行っていましたんですが、ズボンのポケットを縫わされたり、なかなかおっかないところだぞ、一中の方がもうちょっとよろしいというので、一中を受けたら入れまして、一中に行きました。お濠のところを家からずうっと歩いていけたんです。
 ―高等学校はどちらへ行かれましたか。
 一中は、いまでいう受験校で、同期の桜には加藤周一君だとか虎屋の黒川光朝君がいましたが、加藤周一君のような秀才は一高へ行く。私もそのつもりで受験準備していたんですけど、4年も5年も落っこっちゃって、最後に成城を受けましたところが受かって、成城に入りました。それが、入学金って高いんだな。当時で200円ぐらい。ものすごい金額のように思って、申しわけないっていうんで、入った日から、今度は大学入試に落ちないようにやろうと。(笑い)

東大の建築へ入る
――建築のほうへ進もうと思われたのは、いつ頃からですか
 はじめにいいましたように、家での職業というのはいやで、それから応用化学、有機化学のような水の系統とかカエルを解剖するとか、ああいう系統の学問はいやでね。力学だとか、サイエンスでもドライのほうがいいんで、それから母の従兄弟は小山内薫だったり弟に絵かきがいたり、また私の兄の英了がいたり、そういうこともあって芸術と科学との間ぐらいのところと考えたのです。働くときはうんと働いて、終わったらぐっと休む。コンスタントに工場へ行くというような感じはいやで、建築を受けたんです。幸いに入れたことは入れたんだけど、だんだん戦争の足音が近寄ってきてね、とても落ち着いて勉強するような時代でなく なってきたんです。
――お父さんは医者をされていて、やはりだれか家を継ぐということは考えておられなかったのでしょうか。
 ものすごく考えていました。でも、私のときはさすがに疲れ果てて、兄貴は全部だめで、それから姉を何とか医者に嫁にやろうと大分がんばったけれど駄目でした。結局もう私のころはそんなことはいわないで、「おまえ、好きな道をやれ」ということでした。 それで、ウチの系統は医者が多かったんですが、建築家というのははじめてなんですよ。親戚にも誰もいないんで、勇猛果敢に入ったんですけど、いまになって 反省してみると、今度はウチの息子から親戚から、やたら建築家だらけになっちゃった。(笑い)
――大学へ入られて、建築のほうでは先生はどういう方に教わったのですか。
 計画では岸田日出刀先生ですね。主任が武藤清先生。先生は当時、ジャンガリ頑で黒シャツなんか着たような先生でしたね。入学したとき、私だけ制服が間に合わなかったんです。それではかまに着物を着て行ったんですよ。そうしたら武藤先生がびっくりして、「ちょっときみ、大学というところは実験やなんかあるんだよ。ずうっとそれでくるのか」というから、「いや、洋服が間に合わなかったんです」「あ、そうか。よかった」って。右翼かなんかと思ったらしくてね。(笑い) とにかくみんな制服制帽で金ボタンで行っている中ですからね、いまになってみればびっくり仰天ですよ。
――大学時代の同級生、友人ではどういう方がいらっしゃいましたか。
 その前にね、大学で何を教わったかひとつも覚えてないんですけど、覚えているのは、藤島亥治郎先生という建築史の先生がいまして、なかなかみやびやかな先生でしたが、講義で「いや、建築を勉強してよかったよ。ギリシアへ行ってアクロポリスの丘にのぼってパルテノンの神殿を見たときの感激はなんともいえないぞ」といわれた、それだけは覚えているんです。 それで、藤島先生に30年振りにお会いしたときその話をして、「先生のその話だけ覚えている」っていったら、「いや、きみのことも覚えているよ。きみは入学式のときみんなの前であいさつした。そのときに」――これは大正の人でないと知らないけれども、松沢病院に芦原将軍という有名な気違いがいましてね、で、「『気違いでは芦原将軍、レビュー界では葦原邦子、ここにいます芦原はこれから建築を勉強して、将来どうなるか、楽しみにしてください』といった。それを覚えている」っていわれたことがあります。それで、同級生は池辺陽、田中一彦。このふたりとも東大の先生になったんですが、もうなくなりました。それから佐野正一、 今度清水建設の社長になった吉野照蔵、宮内庁の小幡祥一郎、40人ほどですけどいろいろなおもしろいのがいましたね。私たちの年とその1年前が戦争犠牲者というか、戦死したりしたのがずいぶんいましてね。教育も2年半しか受けてないんで、できそこないの年といわれているんです。

武藤門下で卒論を
 大学に入ったのは昭和15年で、まだまあまあのころだったんです、1年のころはギリシアのオーダーをコピーしたり、コルビュジエの本を読んだりしていたんですけど、2年ごろからだんだん様子がおかしくなり、本当は18年3月に卒業するはずだったのが、17年9月に繰上げ卒業となりました。卒論はだんだんそんな雰囲気になってきたので、私も「塑性領域にけるラーメンの研究」というのを、武藤先生のところへ行って、くる日もくる日も擁角法で計算して論文を書いたんです。だから私は武藤門下ということになっているんです。その「塑性領域におけるラーメンの研究」が、まさか超高層の理論につながるとは知らなかったですね、武藤先生は、そのころからそういうことを考えられていたんですね。
――そのころはデザインをやるなどという感じは、大学でもほとんどなかったのですか。
 いや、そうでもなかったです。丹下さんとか池辺君とか、コルビュジエの本を勉強してやっていましたから。それから当時、いまでも思い出すんですけど、現在東光堂の会長をしている石内茂吉君が、製図室に本を持ってきてパッと開くんです。そうするとコルビュジエの本なんか出てくるんです。買ってもわりと金を催促しないんです。「卒業のときでいい」とかね。私はもうアルフレッド・ロートの「ニュー・アーキテクチュアー」という英語とフランス語とドイツ語で書いてある本が欲しくて欲しくて、20円だったかな、母に相談して、戦争の足音高いころでしたが、それを買って家に帰って開くと、非常に文化のにおいがしましたね、そういった時代でした。いまの学生には想像もつかない時代だったかと思いますね。
――大学での教え方はどうでしたか。
 教え方はいまとほぼ同じです。設計課題を出して講評したり、それから内田祥三先生の講義は、朝8時からで、遅刻すると怒られるしね。それから高山英華先生が助教授で、はじめて講義したんですね。高山先生は張り切っていましたね。それで、みんな非常によく勉強しましたよ。
――デザインは教えるほうも教わるほうも、近代建築がべ一スになっていたわけですね。
 もちろん、そうです。それで、卒業設計は「駅」をやりました。国鉄に行こうかなと思ってね。いま思い出したら、パースを藤田の叔父貴にちよっと手伝ってもらって。(笑い)ちょっちょっと画龍点晴したら急によくなった。それは大学の建築の図書室にあるんじゃないかな。
――そういえ飼級の佐野正一さんは、国鉄へ行かれたんですね。
 ええ、そうです。
ドイツ留学時代の父親
私の生まれた家と
父のクリニック
The Fujita Family
幼年時代のスケッチ
by 藤田画伯
東大の製図室
東大の同級生
卒業制作のパース